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【三国志】関羽と張飛の年齢に関する考察

関羽と張飛は、物語の中でそうであるように、一般的には劉備と同世代とされている。 しかし、史書を紐解いても―少なくとも自分には―それを示す記述は見つからなかった。 では、関羽と張飛の年齢はどのくらいなのか? それを考えてみた。
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関羽と張飛の年齢

関羽と張飛の年齢について、一年前からかなり若いという結論に至っていた。それを改めて説明していく。

Jominian @Jominian

まとめ用に関羽張飛の年齢についてツイートしていこう。 発端はこれ。約1年前 twitter.com/Jominian/statu… twilog.org/Jominian/date-…

2015-02-17 22:57:07
Jominian @Jominian

関羽と張飛の年齢は、演義がそう描いているように、劉備と同年代と思っている人がほとんどであるし、俺もそう思っていた。特に疑問に思うこともなかった。しかし、史書を読んでも、そういったことを示すものはなく、むしろ、もっと若いことを示唆するものが多い。

2015-02-17 22:59:01
主たる根拠-合流時期
Jominian @Jominian

関羽と張飛の年齢を示す話は、彼らが劉備に従った時の年齢にある。当時の張飛を、三国志張飛伝は「少」と記述する。この書き方は、三国志では姜維や賈充、後漢書の陶謙伝などに現れ、多くは15歳以下である。つまり、張飛が劉備に従った時の年齢は15歳以下であり、関羽はその数歳上である。

2015-02-17 23:03:33
Jominian @Jominian

関羽と張飛の年齢を示すものが、彼らが劉備に従った時にあるとすれば、その時期を特定できれば、彼らの年齢も自ずと決まる。では、それはいつか? 先主伝に鍵がある。一般に、劉備は中平元年の黄巾蜂起で挙兵したと思われているが、史書はそれを示さず、中平五年の張純の乱で挙兵したと示す。

2015-02-17 23:05:43

こう書いていますが、三国志では、劉備が郷里で兵を糾合した時に、関羽と張飛を禦侮と為したとあるだけなので、無理に解釈すれば、挙兵以前から劉備に従っていたともできます。しかし、個人的には、それは関羽張飛の年齢調整ありきで、自然な解釈とは思えません。


Jominian @Jominian

劉備の挙兵が中平五年であることを示す話としては、まずは先主伝本文にある「校尉鄒靖に従って黄巾討伐に随行した」という記述である。 鄒靖は中平元年当時は北軍中候であり、校尉ではない。彼が校尉として現れるのは、張純の乱に対応した公孫瓚と共闘した時で、中平五年頃である。

2015-02-17 23:07:27
Jominian @Jominian

「校尉」鄒靖に従ったこと以外に、劉備挙兵時期を示すものとして、注釈の典略がある。典略は、本伝で劉備が黄巾討伐の功績で拝命した、安喜尉になる前の劉備を描く。 典略の中で、劉備は平原の劉平に張純討伐の軍への参加を推薦され、実際にも参加している。本伝と突き合わせると挙兵は中平五年となる

2015-02-17 23:10:36
Jominian @Jominian

劉備が挙兵したと見られる中平五年は、張純の乱真っ盛りであったが、同時に、後漢書献帝紀によれば青、徐州で黄巾が蜂起している。 後漢書で張純の乱に対応したのは公孫瓚と中郎将孟益であり、鄒靖も後に参加しているものの、当初は別任務、すなわちこの青、徐黄巾討伐だったと見ていい。

2015-02-17 23:12:48
Jominian @Jominian

そもそも、劉備が兵を集めたとされるのは、本伝では中山の商人張世平の支援によるものである。この中山の商人が馬を売りに涿郡に来るという状況を想定した場合、馬が売れる状況で、涿郡がまだ巻き込まれていない時、すなわち張純の乱勃発頃であろう。張純の乱は涿郡までは達していなかった。

2015-02-17 23:15:04
Jominian @Jominian

商人が見返りもなく金を提供するだろうか? 張世平が劉備に資金を提供したのは、彼を義勇軍のリーダーとして雇ったという意味であろう。だからこそ、冀州に近い青州の大都市平原を守る戦いに参加し、終わった後も張世平の膝元である中山安喜の尉になったのだ。もちろん推測であるが、自然である。

2015-02-17 23:17:58
Jominian @Jominian

劉備挙兵時期を中平五年とすると、関羽張飛の従軍上限もその頃である。だが、時期を中平五年頃とするには問題がある。その後の劉備にまとまった兵を養っていた形跡が見られないことと、河東と劉備に繋がりがないことである。これを考える必要がある。

2015-02-17 23:20:09
Jominian @Jominian

劉備は張純の乱の討伐軍に参加したが、敗れ、死んだふりをして生き延びている。また、戦後に得た安喜尉は、「知己」の督郵を鞭打って投げ捨てることになった。 督郵という郡の有力な官と、劉備が知己というのは不自然で、これは張世平関係者の可能性があり、ここで張世平の支援を失った可能性がある。

2015-02-17 23:24:33
Jominian @Jominian

安喜で督郵を打ったことで張世平の支援を失ったとすると、劉備に兵を養うだけの力はなくなるだろう。 そこで劉備は何進の推進していた募兵に参加することになったのだ。ここで出会うのが、「河東」の毌丘毅である。劉備と河東の繋がりは、唯一ここにしか史書の中に見い出せない

2015-02-17 23:26:21
Jominian @Jominian

劉備と河東の繋がりを募兵に見い出せば、関羽の合流はそれ以降と見る方がいい。また、劉備義勇軍が一度壊滅的な状況になっている以上、黄巾討伐以降の合流とする方が自然なのである。何より、関羽伝も張飛伝も、黄巾討伐や下邳での賊討伐について記していない。

2015-02-17 23:28:32
Jominian @Jominian

劉備が参加したのは霊帝の末年頃に何進が推進した募兵であり、恐らくは中平六年だ。 劉備はその後、下邳での戦闘で功績が認められ、青州下密の丞となる。しかしこれを放り出し、高唐の尉となった。 名門でもないのに官職を放り出した人間に、何もなしに官職は来ない。高唐尉は公孫瓚によるものだろう

2015-02-17 23:31:37

劉備の募兵例として、英雄記にある曹操と共に行った募兵もあります。これは、恐らく英雄記に劉備の伝記がなかったであろう関係から、文章が不自然になっており、正確な時期を示せません。しかし、霊帝の末年頃のこととされているので、恐らくは毌丘毅と共に行った募兵であると推測できます。


Jominian @Jominian

黄巾討伐以降で、劉備が人を集めたタイミングが一つだけある。それは、劉備が公孫瓚のもとに走った時である。 この時、劉備は漁陽の田豫を迎え入れている。つまり、幽州において、恐らくは公孫瓚の援助で人を集めたのだ。関羽と張飛の合流も、この頃と見た方が自然である。すなわち初平元年頃である。

2015-02-17 23:34:24
Jominian @Jominian

関羽と張飛の合流を初平元年とし、彼らの伝から分かる年齢をそこに当てはめると、以下のようになる。「数」というのは大体2か3であるから 初平元年(190年) 関羽…12~18歳(満年齢11~17歳) 張飛…10~15歳(満年齢9~14歳)

2015-02-17 23:37:41
Jominian @Jominian

劉備の挙兵時期とその後の行動、そこから推測される関羽と張飛の合流時期から年齢を割り出すと、丁度いい生年として以下のようになる。 関羽…175年頃 張飛…178年頃 このようにすると、これ以降に現れる関羽や張飛の話と符合するものが出てくる。黄忠や馬超との比較である。

2015-02-17 23:40:02
Jominian @Jominian

関羽は、建安二十四年に前後左右将軍が任命された際、後将軍黄忠と同列になることを嫌がった。その理由は、黄忠が「老兵」であるからである。一般に流布している説では、関羽はこの時60歳になろうとしている時期で、兵を返すのも当然の時期、黄忠を老兵と呼べるほど若くない。宗預と鄧芝のようになる

2015-02-17 23:42:23
Jominian @Jominian

関羽は馬超が降った時、馬超の能力を諸葛亮に尋ねている。諸葛亮は馬超を評して「張飛と同等だが、関羽には及ばない」と述べ、関羽はそれを喜んだ。 関張が55歳頃なら、40前の若造と比べられて喜ぶだろうか?ましてや張飛がそれと同等とされるのを喜ぶだろうか?三人は同世代だった方が自然

2015-02-17 23:46:29
Jominian @Jominian

劉備が関羽らを従えた時期から割り出した年齢は、その後の逸話と符合する。 むしろ、劉備と同世代とする方が、史書の中に根拠が見出だせないばかりか、関羽を自分も省みることもできない、大人げない人物として描くこととなる。 関羽と張飛は、劉備より一回り下だったとするのが最も自然なのだ

2015-02-17 23:50:16

コメント

大禍津 @RedriaAin 2015年2月18日
ああ、こういう考察大好きです
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叔嗣(しゅくし) @korekorebox 2015年2月18日
175年前後という事は、ほぼ孫策・周瑜と同い年という事になるのか。
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叔嗣(しゅくし) @korekorebox 2015年2月18日
中平五年頃に鄒靖が校尉として現れるとあるけれど、どこからの引用なのか分からない。
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Jominian @Jominian 2015年2月19日
鄒靖が校尉として現れるのは太平御覧八百七十に引く英雄記で、公孫瓚と共に胡を追った記述が見える。公孫瓚が中央軍と共に胡と戦うのは張純の乱の頃なので、中平五年頃とするのが最も自然。
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叔嗣(しゅくし) @korekorebox 2015年2月19日
太平御覧ですか破虜校尉とありますね。確認しました。
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