北条と里見の手切れのアレコレ

義堯さんが氏綱さんと交わした誓詞の内容だったり後年の義堯さんが怒ってるポイントだったり カッコ内はオタクの妄言です
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校倉来夏 @damian_ngys

里見関係の連ツイ失礼しまっす

2015-02-22 21:18:07
校倉来夏 @damian_ngys

如月さん(@ksrg0)が房総里見一族引用まとめ(togetter.com/li/705532)で触れてた「義堯が真里谷大学入道のことについて氏綱と誓詞を交わした」件の真相がどうにも気になったのでちょっと手持ちの本を漁ってみました。

2015-02-22 21:18:17
校倉来夏 @damian_ngys

一連の呟きはログ用にとぅぎゃります。おかしなとこあったらツッコミ是非よろしく!!

2015-02-22 21:18:25
校倉来夏 @damian_ngys

真里谷周辺がわけわかめだよ状態になること必至なので、先に基礎情報として如月さん謹製まとめ(bit.ly/19WFiKS )を読んでおくことをオススメします。信隆と信応がどっちがどっちなのか未だにキッチリ覚えられぬ…ややこしい…

2015-02-22 21:20:09
校倉来夏 @damian_ngys

気になったのは 「交わした誓詞の内容はなんだったのか」 「義堯が北条に対して怒っているポイントはどこか」 「里見と北条が手切れになった経緯の実態と流れ」 このへんです。

2015-02-22 21:20:17
校倉来夏 @damian_ngys

参考にした書籍は「房総里見一族」と「戦国の房総と北条氏」。 ほかにも「安房妙本寺日我一代記」「中世関東武士の研究第十三巻 房総里見氏」「実録戦国北条記」「戦国の魁 早雲と北条一族」など。

2015-02-22 21:20:25
校倉来夏 @damian_ngys

(「戦国の房総と北条氏」は真里谷武田に関しての記述も多いので正直これがあったおかげで房総里見一族の例の「和睦お断りします( ゚ω゚ )」 文の実態がわかったと言ってもいい。とゴリマしておきます。まだちゃんと理解できてないけど千葉氏や時忠が北条に行った時の話も詳しく載ってる)

2015-02-22 21:20:33
校倉来夏 @damian_ngys

まず年号順に事柄を並べてみる。 -以下関連しそうな年表- 1534年 真里谷恕鑑 切腹 1536年 今川氏輝 死去 1537年2月 北条と今川が手切れ、第一次河東一乱

2015-02-22 21:20:44
校倉来夏 @damian_ngys

1537年5月 真里谷信応、信隆が衝突「上総錯乱」 この時氏綱は、大藤金石斎を真里谷新地城へ派兵するも、敵中に孤立 併せて氏綱の推す真里谷信隆方の籠もる峰上城が孤立 百首(造海)城まで救援のため援兵に来ていた義堯も孤立

2015-02-22 21:20:54
校倉来夏 @damian_ngys

氏綱は小弓公方擁する信応が真里谷の家督相続を行うことを認め、(=北条側の一時敗退)大藤の開放と帰国を許される。 この時、義堯は小弓公方陣営へ 「戦国の房総と北条氏」は小弓公方側から以前より義堯へ申し合わせがあったのではと指摘している。

2015-02-22 21:21:02
校倉来夏 @damian_ngys

1545年9月 里見、北条に和睦を請うも、真里谷信応が(義堯に対して?)軍勢を差し向けて強く反対したため、成立せず

2015-02-22 21:21:11
校倉来夏 @damian_ngys

1546年8月 反信隆方だった真里谷(武田)義信=大炊頭の復権を名目として北条、義堯在城の佐貫城を包囲

2015-02-22 21:21:18
校倉来夏 @damian_ngys

真里谷義信の室は里見実堯娘とあるので=義堯の義弟にあたる?(天文6年以降の話らしい) この頃には信秋・義信系の真里谷氏は没落しており、実際には北条と里見による代理戦争になっていた

2015-02-22 21:21:25
校倉来夏 @damian_ngys

里見は滅亡の危機に瀕するものの、太田資正の松山・岩付奪取により辛くも救われる。もっとも、救世主こと資正は余り持たずに北条に降伏してしまうが。

2015-02-22 21:21:32
校倉来夏 @damian_ngys

1569年 越相同盟成立 氏康が義堯に和睦を請う手紙を送る。双方既に隠居の身である。義堯は入道後である。この時の対里見外交の担当者は北条氏規。

2015-02-22 21:21:39
校倉来夏 @damian_ngys

1571年10月 氏康死去 1574年6月 義堯死去 1577年 久留里城を囲まれたため北条と里見、和睦。(房相一和)

2015-02-22 21:21:45
校倉来夏 @damian_ngys

房相一和により氏政娘:院と里見義頼が婚姻。 以後里見は小田原合戦まで親北条とも反北条ともつかない微妙な立場を貫く。 (援兵などはしていたかと思えば佐竹に筒抜けにしていたり…ただし反北条に加われと言われても明確な返事をしないなど)

2015-02-22 21:21:53
校倉来夏 @damian_ngys

気になる箇所1:「交わした誓詞の内容はなんだったのか

2015-02-22 21:22:07
校倉来夏 @damian_ngys

まず1569年の義堯が「氏綱と交わした誓詞」と言ってる手紙についてですが、 房総里見一族の該当の箇所を…と思ったけど結構長かったので→房総里見一族引用まとめ(togetter.com/li/705532)を参照ください。(本では131P)

2015-02-22 21:22:16
校倉来夏 @damian_ngys

手紙原文(戦国の房総と北条氏167P)によると、北条側は「峰上城(真里谷大学頭信秋)が義堯方のものになったことを認めた」らしい。「御亡父御有血判、嶺上之地御落居、御誓詞于所持、」の部分

2015-02-22 21:22:24
校倉来夏 @damian_ngys

真里谷大学頭って誰よ?→=元・佐貫城主の真里谷信秋。1545年頃、本城佐貫城、支城の峰上城を北条に攻略されたり里見に取り返されたりするうち没落。この信秋の息子が前述の「真里谷義信(大炊頭)」。

2015-02-22 21:22:34
校倉来夏 @damian_ngys

気になる箇所2:「義堯が北条に対して怒っているポイントはどこか

2015-02-22 21:22:39
校倉来夏 @damian_ngys

怒ってるポイントは義堯本人が言うように「真里谷大学頭のことについて交わした誓詞を北条側が破ったこと」。氏康の代になり、元信秋家臣の横須賀左衛門太夫(元・真里谷信秋配下)を味方に引き入れて峰上城を接収し、家臣に預けた。手紙原文では「貴殿様(=氏康)御違乱」とある。

2015-02-22 21:22:48
校倉来夏 @damian_ngys

(本の書き方からすると、横須賀左衛門太夫側から接触してきたようであるが、北条側としても今川とドンパチしたりの影響もあり上総に勢力を伸ばしたかったので渡りに船とばかりに乗っかった模様?)

2015-02-22 21:22:53
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