茂木健一郎さんによる「ルールのイメージ」に関する連続ツイート 日本の政治家に求めるのは、懐手でルール監視をしている暇な傍観者になることではない、
ルイ(1)たとえば、サッカーの選手は、「オフサイド」などに関するルールを守らなければならない。だからと言って、サッカーというゲームが、ルールを守ることの競争であるはずがない。
2010-12-15 06:58:53リイ(2)むしろ、サッカーで求められるものは華麗に舞い、流雅に動くこと。ルールは、選手たちの熱烈なる運動が、より面白く構造化されるもののためである。
2010-12-15 07:00:06ルイ(3)つまり、ルールは、生命、運動を支援するためにある。決して、「これはやってはいけない」という「NO GO」シグナルとして、人を萎縮させるためにあるのではない。
2010-12-15 07:00:53ルイ(4)企業の「コンプライアンス」だって、いちいち箸の上げ下ろしまで指示して社員を萎縮させるためにあるのではない。むしろ、社員たちがワールドカップにおける選手たちの脈動のように、モーレツに突進することを支えるためにあるはずだ。
2010-12-15 07:02:28ルイ(5)どうも、昨今の日本では、「ルールのイメージ」が本義と異なっているようだ。ルールに従ってプレイする選手たちではなく、懐手でフィールドの外から監視し、「ルール違反」を鬼の首をとったように騒ぎ立てる人たちばかりが力を持つ。だから、国が沈む。
2010-12-15 07:03:35ルイ(6)それと、ルール違反にも、もしそれが生命原理に沿ったものならば、追認されるという側面がある。サッカーの試合中、興奮してボールをつかみ、走り出してしまったという「ラグビー」誕生の神話は、その象徴である。
2010-12-15 07:04:34ルイ(7)たとえば、ウィキリークスの活動を、それが各国の法令(ルール)に形式的に違反するからといって、それだけで切り捨てる議論は、ナンセンスである。アサンジュ氏の活動が、サッカーからラグビーの誕生の瞬間である可能性があるのだ。
2010-12-15 07:06:07ルイ(8)私たちが日本の政治家に求めるのは、サッカーの選手のようにピッチの上を必死になって走り回り、国のためになることをしてくれることであって、懐手でルール監視をしている、暇な傍観者になることではない。
2010-12-15 07:07:02ルイ(9)「ルールのイメージ」を変えることが、日本再生の鍵だと感じる。ルールは、私たちの生命を規制し、萎縮するためにあるのではない。ルールは、私たちの生命の躍動(エラン・ヴィタール)を支えるためにこそある。
2010-12-15 07:07:50