『打の求道者』榎本喜八 小話

まとめました。
雑談 日本プロ野球史 榎本喜八
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ベイ山城さん@2019シーズン復帰 @Bay_yamashiro
えー、この後、10分位したらベイ山城が往年の名選手を語る謎企画第5回をやります。今回の方はこの方。『ミサイル打線』の中核としてオリオンズで活躍された方です。マリーンズファンの方はより楽しめるかもしれません。 pic.twitter.com/n83yGdFeHT
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ベイ山城さん@2019シーズン復帰 @Bay_yamashiro
『史上最年少での1000本安打達成』 『史上最年少での2000本安打達成』 『歴代3位の9度のベストナイン』 日本プロ野球に金字塔を打ち立てたこの大打者は、しかし、野球殿堂入りを果たしておらず、現在の野球ファンでも彼を知っている方はあまり多くはありません。
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榎本喜八さん 大毎オリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)の主軸として『安打製造機』という異名を一番最初に授かった名打者です。突出した才能と飽くなき探究心が生み出したその打撃は多くのプロ野球ファンと選手たちに強烈な印象を与えました。 pic.twitter.com/M4eqxXymU2
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生まれは1936年。 5歳の時に太平洋戦争が勃発。父は戦地へ出征し、母は病死してしまったため、戦時中は祖母と幼い弟の三人暮らしをしました。極貧に悩まされ、食べるものにも非常に困ったそうです。 初めて肉を口にするのも中学の時、しかも干した赤蛙の肉でした。
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戦時中の1943年。 知人に誘われて行った後楽園球場での巨人軍 対 大和軍 の試合が榎本さんの野球を始めるきっかけになりました。 極貧と空腹と戦時中の恐怖の中、プロ野球はまだ7歳だった少年の唯一の希望となり、祖母への恩を返すためにもプロ野球選手を志すのでした。
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1952年、名門早稲田実業に入学。 その頃、生涯の師と出会います。 荒川博さん オリオンズで巧打者として活躍し、後にジャイアンツの名打撃コーチとしてV9を支えることになります。当時、すでにオリオンズへの入団が内定している荒川さんに榎本さんは自身の入団を頼み込みます。
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しかし、どこの馬の骨かもわからないこの後輩を簡単に頼み込めるわけがありません。荒川さんは冗談半分にこう言います。 『これから3年間、毎日朝5時に起きて登校する前に500本素振りすれば、世話してやる』 その言葉を真に受けた榎本さんは毎日欠かさず実行し、荒川さんを驚かせました。
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自身曰く高校時代は『長距離だけを狙う荒い打者』。 その頃から既にスラッガーとしての素質があったようで高校一年の頃に放ったホームランは場外の畑へ落ち、その飛距離に驚いた部員たちはそこに記念として1本の杭を立てたほどでした。 しかし、その記録もとある後輩により塗り替えられます。
ベイ山城さん@2019シーズン復帰 @Bay_yamashiro
王貞治さん 後に榎本さんと共に両リーグを代表する一塁手として活躍し、日本だけでなく世界にもその名を轟かせる最高の打者のひとりになります。 王さんは榎本さんの後輩にあたり、この頃はまだ『投手』でありました。 pic.twitter.com/T8K5Ipvsz2
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1955年、甲子園に出場はしていましたが、良い成績を残せずどこからも指名の声はかかりませんでした。 頼りの荒川さんの家の前で土下座をすることでなんとかオリオンズへの入団テストが行われることになりました。
ベイ山城さん@2019シーズン復帰 @Bay_yamashiro
運命の入団テスト。 その天才的な打撃フォームと選球眼の良さに監督の別当薫さん、こちらも名監督になる当時兼任コーチだった西本幸雄さんは目を見張ります。 入団テストに合格。その期待の高さから背番号『3』を渡され『川上哲治2世』として期待されます。
ベイ山城さん@2019シーズン復帰 @Bay_yamashiro
オープン戦でも結果を残し、高卒1年目にして開幕戦で五番スタメン出場。その後も出場し、139試合、592打席、146安打、16本塁打、打率.298、出塁率.414という驚異的な記録を残し、新人王。清原和博さんに打率、打点、本塁打を抜かれるまでは高卒1年目の歴代最高記録でした。
GEAR@鷹党 @HAWKS_GEAR
@Bay_yamashiro こんな高卒ルーキー現れたら狂喜乱舞ですわ
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しかし、その後もレギュラー選手として出場しますが3割にはなかなか到達しませんでした。特に3割を越えると「3割を切ったら給料が下がる」「祖母を楽にさせられない」とかつての極貧によるトラウマが思い出され、スランプに陥るという脆い面がありました。
ベイ山城さん@2019シーズン復帰 @Bay_yamashiro
そんな1959年のオフ。師でありチームメイトでもあった荒川さんに合気道の創始者、藤平光一さんを紹介され、合気道に従事します。 合気道をヒントにした新たなバッティングや呼吸法による精神強化は榎本選手に打席での脱力を与えます。 このことが彼の素質を開花させることになります。
ベイ山城さん@2019シーズン復帰 @Bay_yamashiro
翌1960年。 打率.344で初めての首位打者を獲得します。まだリーグ平均打率が2割前半だったこの時期に、山内一弘さん、田宮謙次郎さん、葛城隆雄さんらと3割打線を形成。 当時最新鋭の兵器をもじった『大毎ミサイル打線』でオリオンズにリーグ優勝をもたらすのでした。
ベイ山城さん@2019シーズン復帰 @Bay_yamashiro
翌1961年には24歳9ヶ月で通算1000本安打を達成。これは現在でも史上最年少での記録となっています。 この歳も打率.331を記録しますが、自身と同じ『安打製造機』と呼ばれ、生涯のライバルとなる男がその前に立ちはだかります。
ベイ山城さん@2019シーズン復帰 @Bay_yamashiro
張本勲さん 後に日本プロ野球史上唯一の3000本安打到達者にして最多安打記録の持ち主になります。 60年代のこの天才打者ニ傑による熾烈な首位打者争いが、この年より始まるのでした。 pic.twitter.com/IcQj0dHvy7
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ベイ山城さん@2019シーズン復帰 @Bay_yamashiro
しかし、この『安打製造機』の2人には大きな違いがありました。 張本選手の大きな特徴は『スプレー打法』と呼ばれる神がかり的な広角打法にありました。現在でも率を残るタイプの打者にはこのタイプが多いと思います。 一方、榎本選手の特徴はどんな球でも真芯で捉えて引っ張り続けることでした。
ベイ山城さん@2019シーズン復帰 @Bay_yamashiro
『バットを長く握ってフルスイングで真芯で当て一ニ塁間を破る』 通算2314安打を放ちましたがそのほとんどが引っ張る安打で、流し打ちは全くせず、また決して脚も速くなかったため、内野安打も殆ど無いようです。 どんな球でも一ニ塁間を破る打撃を当時の投手たちは恐れたのは言うまでありません
ベイ山城さん@2019シーズン復帰 @Bay_yamashiro
また、そのバッティングフォームにも当時としては特異なものがありました。 現存する映像が殆ど無いのですが、まずは同世代の最高の打者の一人、長嶋茂雄さんのバッティングフォームを見てください。お世辞にも無駄の少ないフォームとはいえません youtu.be/MgHFi5uBnWQ
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ベイ山城さん@2019シーズン復帰 @Bay_yamashiro
こちらが榎本選手。力感の無い体制から、コンパクトかつ鋭いバッティングで一二塁間を破っています。日米野球においてもその全く無駄のないバッティングフォームはメジャーリーガーを驚愕させたそうです。 youtu.be/cpHX_TNvAT4
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