エルシャダイの時にも思ったけど、「愛がなければ同人を作るな」には反対する。愛のある人は愛のある同人誌を作ればいいし、ない人だって愛のない同人誌を作ればいい。それが表現の自由です。 そもそも、他人に愛があるかどうかなんて、“あなた”が勝手に審判していいものじゃありません。
2010-12-15 16:26:59自分も「お前のうみねこ推理には愛がない!」とか言わないように気をつけよおおおおおお 絶対いつか言うで……おおきな主語怖い マジ気をつけないと
2010-12-15 16:53:57@womba90 ありがとうございます。正当化してしまいますよね。愛は素晴らしいですが、他人に「こうあるべき!」押し付けると暴力になってしまう…。自分も思い至るので、気をつけたいです。「相手に愛がない」じゃなくて「私は相手に愛を寄せない」と言い換えるといいかなぁ…と思っています
2010-12-15 17:05:20@KNZ00 それで思い出したんですが、以前、ベルンについてのtogetterを読んで思ったのは、「愛がなければ視えない」という言葉も、ともすると「視えないお前は愛のない人間だ」という相手の人格への攻撃にもなるんですよね。それはそれで、愛がない。
2010-12-15 21:44:36@womba90 なるほど…タッタさんや佐奈さんが仰ってたのはそういうことなのかな、と思いました。難しいですね、愛って。きれいなものなのに、凶器にもなってしまう
2010-12-15 21:49:46@KNZ00 ただ、単に言い方の問題であって、私はこのテーマは大好きです。私としては、「両者の“間”に“どのような”愛があるかによって“視え方が変わる”」くらいのニュアンスで捉えています。
2010-12-15 21:59:57@KNZ00 愛はあくまでも二者の関係の中に生じるものだと思うんです。戦人はベアトと対話をしてベアトを理解したけど、ベルンについては確かに受け容れていないでしょう。しかしそれはあくまで戦人が選択したこと。
2010-12-15 22:16:25@KNZ00 戦人にはベアトへの愛はあったけど、ベルンへの愛はなかった。もちろんベルンにはベルンなりの魔女としての生き方というものがあるでしょうが、戦人はそれを理解する必要がはたしてあるのか。別に戦人に理解されなくても、ベルンにはラムダという理解者がいますし。
2010-12-15 22:21:47@KNZ00 なのであくまでも個人ではなく関係性の問題だと思っています。また、私も便宜的に「ある/ない」「視える/視えない」という言葉を使っていますけど、本来はどちらも単純に白黒で断じれるものではないと思います。
2010-12-15 22:33:10@KNZ00 物事の視え方は、両者がどのような関係を築いているかに依存する、というのが正確なところではないかと。――というのがだいたいの考えです。
2010-12-15 22:35:51@womba90 私も無理に相手の愛を受入れる必要はないと思います。EP5で「ならばせめて自分が言葉を…、と慰めの言葉をあれこれ思案するベアトの肩を、そっとワルギリアが叩く。 ……慰めの言葉は、然るべき人間の口から出なければ、むしろ傷つけることさえあるのだ。」ともありますし
2010-12-15 22:33:25@womba90 「本来はどちらも単純に白黒で断じれるものではない」同意です。 個人的な話になるのですが…うまく言えないんですけれど、自分の愛を他者に理解してもらう必要はないんですよね。「愛がない」と言われて「愛はあります」って返すと、相手の土俵で戦わなければならないことが多くて
2010-12-15 22:38:48@womba90 ありがとうございます。EP5のお茶会でのドラノールと戦人がベアトについて会話してる場面を思い出しましたhttp://knz00.tumblr.com/post/1698181249/
2010-12-15 22:40:58@KNZ00 そのような示唆が…。全体的に、ひぐらしは殻に閉じ籠らず広く受け容れることがテーマになってる一方、うみねこが焦点を当てているのはもっと狭い、個人や二者間についてだと思うのです。
2010-12-15 22:51:10@womba90 なるほど…。そのような対比があるのですね。たしかに、「みんなに受入れて欲しいこと」と「特定の誰かに伝えたいこと」って違う気がします
2010-12-15 22:57:44@KNZ00 確かに、自分の愛が、他の人が想定するそれとは異なることもままありますよね。相手に理解してもらうか、相手の意見を聞き入れるか、平行線のままでいくかは、相手との関係次第だし、最終的には個人の自由だと思います。
2010-12-15 22:59:05@KNZ00 あくまで私の主観ですが。ひぐらしでは皆殺し編のフレデリカの詩で、「井戸の外の世界に出てみよう」というものがありますけど、一方うみねこではEP2の冒頭で、「たとえ井戸の中であっても、本人が満たされているならそれは完成された世界」という対比があります。
2010-12-15 23:06:21@KNZ00 戦人はEP1や2の時点ではベアトを完全に敵視してましたけど、EP5でベアトを理解しましたものね。同様に、ベルンを理解することだって可能ではあると思います。ただ、この物語の焦点はあくまで戦人とベアトであって、ベルンにまで言及する必要はないのではないかと思っています。
2010-12-15 23:29:25@womba90 なるほど…。縁寿が“他者は彼女を、満たされない可哀想な子として観測したが、……彼女は自らは満たされていると、自らを認めていたのだ。 だから、それで幸せだったのだ。” と言っていたのも、そこに通じるのかなと思いました。http://j.mp/dJiHSp
2010-12-15 23:35:37@womba90 なるほど…そうですよね。 戦人がベルンカステルとわかりあえたなら、それはそれで(傍観者的には)素晴らしいと思いますけれど。必ずしもベルンカステルを理解しなければならないわけではないんですよね。戦人が自分の責任で選べばいいのか、と思えました
2010-12-15 23:42:58