19世紀半ばからの囲碁界を適当に振り返る

読み返したら結構間違いだらけですいません
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Tamejirou @Tamejirou

幻庵因碩と丈和の確執は、後に丈和の息子を井上家の跡目にして和解したというけどさ、その養子は発狂して刃傷沙汰を起こして退隠しちゃうんだ。俺は底意地が悪いので、因碩が、坊家を継げなかった丈和の息子をいびり殺したんじゃないかなどと邪推してしまう。赤星因徹は丈和に殺されたようなもんだし。

2015-03-16 13:40:00
Tamejirou @Tamejirou

井上秀徹(節山因碩)の名を見るとどうしても切なくなるのはそういうわけ。秀和の長男の秀悦も末路が不幸だったし、本因坊の実子は総じて不遇。ただし秀悦の弟の秀栄は別

2015-03-16 13:42:30
Tamejirou @Tamejirou

丈和は、元丈に愛されなかった弟子なんだよね。昇達が遅く、兄弟子の智策が早世しなければ跡目にもならなかったろう。しかし師匠の息子、丈策を跡目にした。無論そのあとは秀和。しかしここで丈和の実子、葛野忠左衛門はコースから外れてしまう。病気のせいもあるが、水谷家、井上家と点々として……

2015-03-17 22:44:46
Tamejirou @Tamejirou

葛野忠左衛門が坊家を継げずに外家や他家の養子になって、後に発狂して刃傷沙汰になるの、丈和の因果が巡った感がすごくある。歯車が一つずれていたらそれはまさしく丈和こと葛野松之助が辿っていたであろう道。

2015-03-17 22:49:07
Tamejirou @Tamejirou

元丈は仕方なく、丈和を跡目に据えた節がある。丈和本人は、自分は烈元の弟子だと思っていたのではないかな。

2015-03-17 22:50:48
Tamejirou @Tamejirou

丈和は因徹を吐血の碁で破り、幻庵因碩は秀和の先を破れなかったんだけど、その秀和も、葛野忠左衛門こと節山因碩の次、松本因碩に肝心の碁で勝てずに名人碁所を逃す。因果は巡る

2015-03-17 22:53:58

丈和の三妙手、吐血の碁で敗れた赤星因徹の記事。
赤星因徹 - Wikipedia

Tamejirou @Tamejirou

松本因碩が秀和に勝った碁は『幻庵乗り移り』と言われるのだけど、乗り移っていたのは節山ではなかったか。丈和の長子であり、実力もありながら、元丈の子の丈策、次いでは秀和にその座を譲らざるを得なかった男。

2015-03-17 22:56:22
Tamejirou @Tamejirou

秀策に暗いイメージがないのは、結局のところ早死したからってのもあるんだよな。秀策が背負っていたかもしれない、幕末の動乱と苦悩は秀和と秀甫が背負うことになった

2015-03-17 22:58:37
Tamejirou @Tamejirou

秀甫も秀栄も、当時の最強者であると同時に碁界の経営者でもあったわけで、そうなると丈和、幻庵因碩の頃に更に輪をかけてドロドロした世界が出てくるのは仕方ない。四家元時代には寺社奉行、幕府という上位の権威があったが、明治期には秀甫や秀栄、その他棋士そのものが権威を兼ねていた。

2015-03-17 23:02:04
Tamejirou @Tamejirou

これが大手合を経て打込み十番碁とかの時代になると、新聞社というスポンサーを兼ねた媒体が出てきて、棋士の地位を担保する権威が外部化されるんだよね。ここに、呉清源や木谷実といった棋士の活躍する新時代への下地がある

2015-03-17 23:04:41
Tamejirou @Tamejirou

といってもしばらくは、秀哉名人を頂点とした権威主義の形は続くのだけれど。秀哉以外の棋士でトーナメントやリーグを打って、優勝者が「名人と打つ栄誉ある機会」を獲得するような時代。勿論、勝てば名人位を奪取するなどというものではない

2015-03-17 23:06:52
Tamejirou @Tamejirou

呉清源が秀哉名人と打ったとき、三三星天元という布石で2目負けたのだけれど、あれは異様な雰囲気の碁だった。もう80年も前のことだ

2015-03-17 23:10:32
Tamejirou @Tamejirou

一方、その数年後、木谷実が秀哉名人の引退碁を打って6目勝った時はそういう異様な気配はなかった。このあたりから棋界は群雄割拠の様相となる

2015-03-17 23:12:56
Tamejirou @Tamejirou

それでも、高川格が本因坊を連覇していた頃、本因坊戦の優勝はしばらくの間「呉清源への挑戦権」と同義だったのだ。杉内雅男九段が本因坊挑戦したのはこの頃だ(1954,58年の二回)

2015-03-17 23:17:24
Tamejirou @Tamejirou

本因坊戦七番勝負と、呉清源に挑戦、の間に日数を置くようになってようやく高川さんは勝てるようになった。勿論、年齢によりピークを過ぎつつあったのかもしれないが…… それでも呉清源は40代だったのだが

2015-03-17 23:19:38
Tamejirou @Tamejirou

その高川さんから坂田さんが本因坊を獲って、「30代の名人などありえない」と言っていたら20代の林海峰が出てきたわけだ。秀行さんなんかは焦っただろうね。他の人が坂田さんを倒しちゃった。

2015-03-17 23:21:21

訂正コメ。秀行さんは自分が創設に関わった名人位の初代を獲っている。しかし1期で坂田さんに取られた。坂田さんが言ったのは「20代の名人はありえない」で、この時45歳。

Tamejirou @Tamejirou

林さんと並んで大竹さん、少し経つと木谷門の三羽烏、そして治勲と小林光一の二強時代になるわけだ。こうなるともう平成にかかってくる。

2015-03-17 23:22:54
Tamejirou @Tamejirou

治勲さんが本因坊を十連覇したときは、もう誰も勝てないんじゃないかと言われたもんだ。でも趙善津にとられた。名人は依田さんがとった。尚この二人は同門だ。

2015-03-17 23:24:14