知的障害や発達障害について

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渡邊芳之 @ynabe39

知的障害や発達障害と「ほんらいの病気」の最大の違いは,前者は「社会から何かが求められることによって初めて生まれる障害」であることだ。病気は社会とは関係なく体を冒し障害や死を招くが,知的障害や発達障害はそうではない。

2010-12-16 21:44:01
渡邊芳之 @ynabe39

発達障害はその典型的なもので,社会がコミュニケーション能力や「心の理論」をこれまでの人類の歴史では考えられなかったほど高度に求めるようになった結果,100年前には日常生活になんの問題も引きおこさなかったような軽微な「不足」が障害として前景化した。

2010-12-16 21:49:16
渡邊芳之 @ynabe39

いま「発達障害」と言われている人々と同じ特徴をもった人々は,100年前にもおそらく今とほとんど変わらない比率で存在した。ただ100年前にはそれは日常生活上も対人関係上も,特別な問題を引き起こすような問題ではなかった。

2010-12-16 21:51:13
渡邊芳之 @ynabe39

「自閉症の発見」が資本主義の高度な発展,第一次産業から第三次産業への産業構造の変移と同期していたのは偶然ではない。

2010-12-16 21:52:48
渡邊芳之 @ynabe39

発達障害が「病気」であるというのはある種の「比喩」である。ただ,今の社会制度が「病気でない障害」へのケアや支援の仕組みを持たないために,ケアや支援を可能にするために便宜的に「病気」と呼ばれているだけだ。

2010-12-16 21:55:15
渡邊芳之 @ynabe39

しかしこのことは発達障害に限らず「心の障害」すべてについていえることだ。誰かの心に障害があるといわれるかどうかは必ずその社会が「人の心にどのような機能を求めるか」と連動している。体の健康が基本的には社会とは独立に決まることとは全く違う。

2010-12-16 21:58:38
渡邊芳之 @ynabe39

発達障害や精神障害には体の病気におけるような癌細胞や病変のような「実体」などない。心の障害や病気は人と人の間,人と社会の間に相互作用として生じる社会的なリアリティだ。この最低限の基本的な認識が共有されない相手とこのことについて議論するのは難しい。

2010-12-16 22:05:24
渡邊芳之 @ynabe39

だから精神障害や発達障害について述べることは,科学的な事実について述べることではなく,つねになんらかの「社会的主張」であり「社会運動」である。これは切り分ける側,差別する側についても同様ね。

2010-12-16 22:42:47
渡邊芳之 @ynabe39

そもそも「能力」ってもの自体が「要求」との相互作用によってしか把握できないものだと思うんだ。「まだ要求されていないことへの能力がポテンシャルとして存在する」ということは仮説としては言えるけど確認できない。

2010-12-16 23:15:46
渡邊芳之 @ynabe39

これは今日昼間述べていた「知能」の問題でも同じ。

2010-12-16 23:16:38
渡邊芳之 @ynabe39

それも結局機能主義の問題だ。人間であるとか生きているとかいうことの意味や価値を「何ができるか」(どのような機能をもつか)で測ろうとすれば,とうぜん「できない人」の人間性や命は軽いものになる。

2010-12-16 23:24:19
渡邊芳之 @ynabe39

個人間の差異が脳の機能やその他の生理学的機能の差異と関係していることはどんなことでも考えられることだし,それを解明するには自然科学的な視点が必要だろう。しかしそれによって生み出される差異が社会からどう評価されるか,障害とみなされるかを「自然科学的に分析する」ことができるか?

2010-12-16 23:44:15
渡邊芳之 @ynabe39

そもそももし発達障害に「原因となる脳の障害」があるとして,それによって今日私が論じてきた問題が何か変化するか。「身長が低いことは障害である」と主張することが「身長が生物学的な事実である」ことだけで妥当とされるか。

2010-12-16 23:46:36
渡邊芳之 @ynabe39

私が言っているのは「発達障害の人の脳や中枢神経系にそうでない人との差異がある」ということと,それらの人々を「障害」とみなすことの妥当性との間にはあまり関係がないということです。

2010-12-16 23:59:15
渡邊芳之 @ynabe39

「まず切り分けてから違いを捜す,それで見つかった違いから切り分けを妥当化する」というのはよくある論理ですが,正しくないと思います。

2010-12-17 00:01:33