『アニメ作家としての手塚治虫 その軌跡と本質』(津堅信之)を批判する
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『アニメ作家としての手塚治虫 その軌跡と本質』(津堅信之)を再読。過去に何度も批判的に取り上げてきた本。じっくり論じて直してみます。
2015-04-05 17:16:48「第一章 アニメへの開眼」のなかで、敗戦間際に観た戦意高揚アニメ映画『海の神兵』に手塚少年が感激したのは実は嫉妬の念があったからではないか、と論じている。p27
2015-04-05 17:20:03>まさに自分がやろうとしていたことを先にやられてしまったものであり、流れてきた涙のかなりの部分が「悔しさ」だったのではないだろうか。(p29)
2015-04-05 17:21:37「それはあなたの勝手な読みでしょーが」と突っ込まれるのを予想してか、こう続く。 >もちろん、以上の仮定は、実証的な資料がない中での文字通りの仮定である。
2015-04-05 17:23:07こういう論じ方はズル。自分も過去にやってるから気持ちはわかる。わかるけど、この後展開される説(大間違いだけど)をもっともらしくするための伏線なのが見えてしまう。
2015-04-05 17:25:14この本における津堅の論述トリックは他にもあります。「第二章 虫プロ設立まで」のp71末尾から引用。
2015-04-05 17:27:51>実は、手塚は「ディズニーへの思い入れ」についてしばしば公言しているが、「ディズニーのようなアニメーションを目指して虫プロを作った」という発言はほとんどみられない。
2015-04-05 17:29:41>むしろ、虫プロ設立前から、ディズニーとは異なる方向性であることを強調することがあった。
2015-04-05 17:30:32手塚はもともとディズニー的な自然主義的フルアニメーションを志してはいなかった→ゆえに「省略技法で粗悪品を乱造した」とする大塚康生や宮崎駿らの批判はあたらない、と巧妙に手塚免責の伏線を張っているのですこの章で。
2015-04-05 17:33:43津堅は、手塚がもともとディズニー的本格アニメ(東映動画はこの血筋)ではなく省略技法アニメに心が傾いていたとしていますが、これは正しくないとみます。
2015-04-05 17:37:171958~59年連載の『フィルムは生きている』。アニメーションに野心を燃やす青年の夢と挫折と達成の物語。ちょうどこれの連載中に東映動画から声がかかって『西遊記』に参加。 pic.twitter.com/0GAa6yParx
2015-04-05 17:46:02手塚は思い知る。何百人というスタッフと働くのがどんなに難しいか。自伝のなかでもこぼしていました。『フィルムは生きている』のなかで、アニメ会社の経営者となった主人公にこう言わせる。「人を使うってこんなにむずかしいものとは思わなかった」
2015-04-05 17:49:16アニメ作家とはすなわちアニメ経営者でなくてはならないという、冷酷な現実を東映動画で味わい、戸惑ったとみます。
2015-04-05 17:50:39何百人という人員を動かし管理しなくてはいけないディズニー的本格アニメーションを志すと、嫌でも「経営者」にならざるをえなくなる。自分を「作家」と規程している手塚には我慢がならないことだった。
2015-04-05 17:52:00それで手塚はリミテッドアニメーションに迂回路を求めた、とみたほうがいいのではないかなーと思うわけです。
2015-04-05 17:53:02なにしろ少数精鋭で作れるから、「人を使うってこんなにむずかしいものとは思わなかった」とほおづえをついて嘆く事態を避けられる。みんな仲間だひとりひとりが作家なんだ、と。
2015-04-05 17:55:10>東映動画の『西遊記』において、手塚がストーリーボードを多用するディズニー的なスタイルをとろうとしたのは、それが「東洋のディズニー」を標榜する東映動画の傘の下での仕事だからであって、手塚のアニメーションにおける本質的な志向によるものではなかったのではないだろうか。(p77)
2015-04-05 18:02:54零点。正しくは「ディズニー的な凝ったアニメを夢見て東映動画に参加したけれど、ひとを管理する『経営者』の姿勢が問われることにおののき、少数精鋭でいけるリミテッドアニメに傾斜していった」です。
2015-04-05 18:04:54西遊記 予告篇: youtu.be/7c5LEgQQW8E 1960年公開。ウォルト・ディズニーが案内役で登場するスタイルを踏襲してますね大川社長。
2015-04-05 18:08:08大勢の絵描きが部屋にぎっしり机を並べて作業している。この何百人という人員を管理するのが経営者。
2015-04-05 18:10:52チャップリンの『モダンタイムス』めいた姿に手塚はおののいた。そして自らの出資と企画で少数精鋭主義で作り上げたのが『ある街角の物語』。1962年。tezukaosamu.net/jp/anime/64.ht… スタッフは十数人くらい。
2015-04-05 18:14:07繰り返します。「手塚はもともとディズニーアニメを志してはいなかった」のではなく「志していたんんだけど心が折れてリミテッドに迂回路を探った」のです。
2015-04-05 18:16:28>当時から手塚の周囲にいたスタッフは、手塚が虫プロで本質的にやりたかったのは、「商業アニメーションではなく実験アニメーションだった」と口をそろえている。(p77) それは『西遊記』で挫折した「後」の話でしょうが!なぜ誰もそこに気づかない。
2015-04-05 18:19:25などなど「気づけよそれくらい」な読みができていない論が延々と続くのが、この『アニメ作家としての手塚治虫』という本なのです。
2015-04-05 18:21:49