電王戦、ゲームにおける美

さいおんさんのまとめ
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さいおん @Xiwong_Noel
少し(いや、これは言葉のあやというもので、実際は長文になるはずです)電王戦のルール、ルールに則って戦うこと、そして今年は何度も聞くことになったゲームにおける美しさ、ということについて書きます。
さいおん @Xiwong_Noel
電王戦が団体戦として形を整える中で二年めに作られた、実戦と同じプログラムを事前に提出し、プロ棋士側が一方的にそれで研究する一方、プログラム開発者側は一切改良することができない、というルールは、当初から非常にプロ棋士側有利な規定、と見られて来ました。これで勝てないはずがない。とも。
さいおん @Xiwong_Noel
一年めについていえば、事前貸し出しは任意のもので「勝負だから」と断った開発者もいましたし、そのプログラムと対局する棋士は、他のプログラムを借りて練習環境としたようです。非人間との対局経験がほとんどない棋士にとってはそれでも役に立つだろう、ということで、今から見ればゆるい世界です。
さいおん @Xiwong_Noel
しかし、一年め二年め、棋士側で勝つことができたのはそれぞれ一人だけでした。そして勝ったのはどちらも、貸し出されたプログラムを他の棋士数倍~十倍以上の対局数・時間を費やして研究し、その能力や癖をよく掴んだ、むちゃくちゃに研究熱心な若手の棋士でした。
さいおん @Xiwong_Noel
貸し出しを受けても、それほどプログラムとの研究に時間を使わなかった棋士もいて、それはそもそもコンピューターとの対戦に向いた人選ではなかったのではないか、あるいはせっかく有利に利用できるはずのルール上のアドバンテージをまったく活かしていないではないか、という批判がありました。
さいおん @Xiwong_Noel
そういった過程を経て、今年プロ棋士側から選ばれたのは、全員コンピューターにアレルギーがない程度に若く、それでいて充分な勝率があって、戦術研究に向いていると思われた人たちだけになりました。前回までとは違い、対局予定者以外の協力も含めた集団での研究もだいぶ行われたようです。
さいおん @Xiwong_Noel
今までそれをやらなかったほうがおかしいのでは、という意見もあるでしょうが、それまで棋士側ではそこまでコンピューターを「ほんとうに強い」相手として認識できていなかった、ということでしょう。それまでの連敗が、ようやくルールを万全に活かしてより多くの勝ちを狙う方向に向かわせたのです。
さいおん @Xiwong_Noel
しかし、そうやって真剣に研究してみたとき、将棋プログラムはおおかたの予想を超えて強くなってしまっていました。事前研究の様子はドキュメンタリー動画になっていますし、対局後のインタビューでもそれぞれ答えていますが、これだけのプレイヤーたちが、一割~二割くらいしか勝てなかったのです。
さいおん @Xiwong_Noel
ディープな将棋(棋士)ファンがもっとも衝撃を受けたのは、この辺ではないかと思います。この棋士たちが、現在最高レベルの人間のプレイヤー(シンボル的に羽生さん、と代入してもいいでしょう)を、単独で一方的にここまで研究できたとして、勝率がこれほど低いと想像できるでしょうか?
さいおん @Xiwong_Noel
勝つ可能性を上げるには(参加した棋士はそれ以外の選択肢が意識できない心理状態だったでしょう)プログラムの得意でない局面に誘導する、という程度ではもう充分ではなく、そのプログラムが決定的な悪手を、高い再現度で指す形を発見するしかない、という雰囲気になるのも仕方なかったのでしょう。
さいおん @Xiwong_Noel
プログラム側も、そういった研究に負けることを避けるために、指し手にランダム性を持たせていますから、「本番でダイスを振ってどちらの目が出るか」でほとんど勝負が決まる、というようなことになりました。生放送中継では「どこまで研究手順」といった言葉が公然と連呼されました。
さいおん @Xiwong_Noel
この光景が不思議に思えるのはつまり、ふつうの(人間棋士どうしでの)対戦では「完全に事前研究の手順だけで勝敗が決まる」ことを、面白くない、軽蔑すべきことと見る傾向が一般にあるからです。頭でっかちな若者の指す、つまらない将棋、と捕える(比較的昔からのファン層の)観戦者は多いようです。
さいおん @Xiwong_Noel
過去二年、一勝だったのに対して、今年は三勝二敗と勝った、と数字上はなります。しかしその数字は、プログラムがはるかに格上である、と認識した棋士側がルールを最大限活かした戦術を選んだ(本番一回限りのダイス目の)結果得たものであって、むしろプログラムの強さが強調されたように思います。
さいおん @Xiwong_Noel
さて。投了と美しさ、ということについてです。今年の第一局では、プログラム側が必敗の局面になっても投了しない、ということについてずいぶん批判があったようです。中継でそういった指摘が強調されて映ったためにそう見えた、というだけかもしれませんが。
さいおん @Xiwong_Noel
もともと、人間対コンピューターの対局では、一方的な展開になりやすく、いわゆる白熱した戦いや、人間が名局と認識するような棋譜が生まれにくい、と言われています。人間よりも相対的にミスが少ないプログラムは、お互いに拮抗した局面を長引かせず有利にしてしまう、ということもあります。
さいおん @Xiwong_Noel
また、コンピューター側が不利な局面になったとき、プログラムは決定的に不利な瞬間を先延ばしして計算範囲から見えなくする、しかしその瞬間を回避するためにはまったく役立たずにかえって事態を悪くするような手を選んでしまう欠点があります。いわゆる「水平線効果」です。
さいおん @Xiwong_Noel
水平線の向こうにあるものは見えない、というわけです。悪い未来を、計算可能な範囲に見えない水平線の向こう側に追いやってしまった手が、プログラム的には「より良い手」に見えてしまうことは、単なる一つ二つの悪手などよりはるかに改善が難しい問題のようです。
さいおん @Xiwong_Noel
「粘っていれば、いつか逆転のチャンスがあるかもしれない局面」なのか「この方向で粘っても勝ち目はまったくないから、悪手の可能性があっても逆転できるかもしれない勝負手を指すほうがましな局面」かを判断する能力は、まだ人間のほうがはるかに高い、ということでもあります。
さいおん @Xiwong_Noel
そのため、将棋プログラムが負けるときはしばしば、だらだらと不利な局面をさらに不利にしながら引き伸ばすだけ引き伸ばし、人間的視点で見ればわざと美しくないログを生成して負ける、という展開になります。
さいおん @Xiwong_Noel
たしか、第一局のプログラム製作者の方は、そのような負け方がプログラムの特徴であるから、開発者はプログラムを無視して投了する権限があるけれども、投了せずに指しつづけさせる、と事前にオンライン上で表明し、対局相手の棋士にもそう断っていたはずです。しかしそれでも批判されました。
さいおん @Xiwong_Noel
いさぎよく投了することは将棋の美学である。といった言葉も聞かれたと思います。実際、人間どうしの対局では「形作り」といって、負けを自覚した側が、一手違いで勝てたような「整った局面」を作って投了する、という習慣もあります。
さいおん @Xiwong_Noel
現在のところ、「いさぎよく投了する」「美しい投了局面を作る」といった機能を開発された将棋プログラムは一般に知られていません。そんなことを考えても、まず強くなる役には立たないので、当然ともいえるでしょう。プログラムができない分野ということで、開発者に投了の権利が与えられています。
さいおん @Xiwong_Noel
投了は人間にしか理解できない美であるといっても、いつ投了するのが正しく、美しいか、さまざまな意見があり、結論の出ない議論があります。美はけっきょく、主観的なものだからです。「投了は最大の悪手である」という言葉もあります。
さいおん @Xiwong_Noel
つい先日の名人戦第一局では、行方さんが名人戦最短記録の六十手で投了しました。局面は不利でしたが、決定的な負けの道筋はまだなく、一般論でいえば、まだ逆転の可能性が充分あるはずでした。作戦がことごとく裏目に出ていた、そして相手が羽生さんだった、という以外理由のない投了でしょう。
さいおん @Xiwong_Noel
この投了に対しては、「この程度でやる気をなくして投了しているようでは、勝てるものも勝てないのではないか」と内心思った人は多いでしょうが(口の悪さを競う掲示板のような環境では実際言われたかもしれませんが)、表立って非難されはしませんでした。いさぎよさを賞賛もされませんでしたが。
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