【開棺】中尊寺金色堂学術調査65周年語り【調査】~第四夜~ 泰衡の首と蓮の話

 1950年(昭和25年)3月22日~31日、中尊寺にて金色堂の棺を開き、奥州藤原氏四代のミイラ化した遺体に対する学術調査が行われた。  その65周年にちなんで奥州藤原氏botでも六夜に渡ってこの学術調査の話題を語り倒す。その記録のまとめです。
25

閲覧にあたって

 ここでは中尊寺金色堂に眠る藤原四代の全身ミイラおよび首の話題を扱います。
 あまりグロテスクな表現にならないようにしていますが、苦手な方はご注意ください。

これまでの話はこちら

・第一夜 基本的なはなし

まとめ 【開棺】中尊寺金色堂学術調査65周年語り【調査】~第一夜~ 基本的なはなし  1950年3月22日~31日、中尊寺にて金色堂の棺を開き、奥州藤原氏四代のミイラ化した遺体に対する学術調査が行われた。  その65周年にちなんで奥州藤原氏botでも六夜に渡ってこの学術調査の話題を語り倒す。その記録のまとめです。 23350 pv 43

・第二夜 奥州藤原氏はアイヌ?&ミイラ生成の謎

まとめ 【開棺】中尊寺金色堂学術調査65周年語り【調査】~第二夜~ 奥州藤原氏はアイヌ?&ミイラ生成の謎  1950年(昭和25年)3月22日~31日、中尊寺にて金色堂の棺を開き、奥州藤原氏四代のミイラ化した遺体に対する学術調査が行われた。  その65周年にちなんで奥州藤原氏botでも六夜に渡ってこの学術調査の話題を語り倒す。その記録のまとめです。 11991 pv 38 1 user

・第三夜 衡が秀衡で、秀衡が基衡?

まとめ 【開棺】中尊寺金色堂学術調査65周年語り【調査】~第三夜~ 基衡が秀衡で、秀衡が基衡?  1950年(昭和25年)3月22日~31日、中尊寺にて金色堂の棺を開き、奥州藤原氏四代のミイラ化した遺体に対する学術調査が行われた。  その65周年にちなんで奥州藤原氏botでも六夜に渡ってこの学術調査の話題を語り倒す。その記録のまとめです。 5919 pv 31 3

※資料略称

『中尊寺と藤原四代』→『中尊寺』
『中尊寺御遺体学術調査 最終報告』→『最終報告』
詳しい書誌は第一夜をごらんください。

解説者

 奥州藤原botはふだん清衡・基衡・秀衡・泰衡の四人が主に運営し、藤原家と縁深い人々が客人としてたまに呟いています。(詳しくはこちら→http://twpf.jp/ou_fujiwara4
 が、藤原四代が自身のミイラについて語るのはとてもアレなので、以下の二人が代わりに語り倒してくれます。

・藤原 経清(ふじわら つねきよ):初代清衡の父。前九年合戦で安倍氏側につき戦う。
・佐藤 季春(さとう すえはる):二代基衡の乳母子。佐藤継信・忠信兄弟の祖父世代と目される。

報道陣騒動の行方

奥州藤原氏bot @ou_fujiwara4

経清「今夜も時間だ。調査4日目の65年前の今日、清衡の棺と首桶の蓋が開けられた。今日は首が泰衡のものであることが判明した話、それと首桶から発見された蓮の種について話そう」

2015-03-25 22:00:47
奥州藤原氏bot @ou_fujiwara4

季春「昨日、四公の御身体の撮影を要求して寺に拒 否され、乱入を試み失敗した報道各社の紙面には寺の態度を封建主義とか秘密主義などと非難する記事が踊りました……四公の御身体を妄りに晒したくないとい う寺の気持ちは当然だと思うのですが……しかし今日以降騒ぎも収束に向かいます」

2015-03-25 22:06:27

【補足①】報道陣が起こした騒ぎの流れ

3月21日

 現地入りした調査団に報道への対応の指示。報道関係者には、23日の開棺時に金棺の撮影のみ許可しそれ以上の撮影は断ることを確認。
「『調査期間中は各社に共通の資料を発表し、朝日新聞社たりとも報道関係者の者には一切特典を与えずフェアーにやる方針である。その発表は寺側と朝日新聞文化事業団とで承認した上に行われるのであるから、調査委員が担当事項について個々に発表することは差控え、統べてスポークスマン朝比奈氏を通じて行うようにしたい』」(『中尊寺』242p)

3月23日

 朝より棺を開けて調査に入る予定であったが、開棺作業の実況及び遺体の撮影を要求する報道各社とこれを拒否する寺側との話し合いが長引く。最終的に金棺の外観だけの撮影となり、14時過ぎにやっと調査が始まる。

3月24日

正午前:報道陣が寺の戸を破って乱入してきそうになったため調査を中断。寺の第二関門で報道陣は阻止される。
 このような騒動が続いては調査ができないため、寺側・朝日文化事業団・報道陣の三者が協議し、派遣されていた文部省の担当官から、まだ開いていない清衡棺の開棺と石綿の除去(昭和6年、寺は遺体の保存のためになると思い棺内に石綿を詰めていた)の撮影を許可し、遺体が見えるぎりぎりのところで止めさせるという調停案がだされる。

午後:調査は継続。中尊寺で一山会議を開き、遺体の一部撮影を許可しそうな雰囲気も生まれはじめていた。

16時:寺側から本日の調査の打ち切りが調査団に要請される。表からは怒号罵声の声やフラッシュの音が聞こえてきていた。
 この少し前、寺側と報道陣の調停をしていた文部省の担当官が報道陣の一人に殴られる事件が発生。ちょうど居合わせた進駐軍宮城県軍政部に勤務する一日本人女性にこの騒動を目撃され、軍政部に報告が行くおそれが発生。

夜:警察に警備強化を頼むとともに、調査を続行することを確認しあう。
「本部では緊張して会議を開き遠山氏は本日の事件につき暴力に屈することなく飽くまで調査を続行したい意向を含めた伺いを文化事業団理事長朝日新聞社長、長谷部氏に電話で送り、深夜それに対する回答あり」(『最終報告』425p)

3月25日

 各新聞に寺側の対応を「秘密主義」「報道の自由の侵害」と非難する記事が載る。
 中尊寺では警官の数を増やし、消防団も警戒に参加する。
 この日はまだ険悪な雰囲気が報道陣にあったが、騒動は収束に向かい、以後調査の妨害は最終日まで起こらなかった。

首は秀衡三男の泉三郎忠衡?

【補足②】首桶について

「首桶は径一尺五寸高七寸の筒形印籠蓋の挽物で、材には欅を用い、表面内面共に黒漆を塗る」(『中尊寺』150p)

 この首桶は中尊寺の宝物館・讃衡館に展示されている。

 ちなみに「金色堂須弥壇内納置棺及副葬品」の一部として国指定重要文化財扱いだったりする。

(文化庁HP)
http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp
http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/rellist.asp

奥州藤原氏bot @ou_fujiwara4

経清「で、伝秀衡棺、実は基衡棺の近くから出てきたこの首は長い間、秀衡の三男で奥州合戦の直前に泰衡と対立し討たれたと言われる泉三郎忠衡の首だと思われていた。首桶を収めた木箱にも「忠衡公」とはっきり書かれていたし」

2015-03-25 22:12:03
奥州藤原氏bot @ou_fujiwara4

季春「江戸時代の実見記録でもすべて忠衡公の御首とされていますが、その根拠は不明です。『光堂物語』のみ「一説に泰衡の首とも云い」とありますが、あくまで異説。誰もが忠衡様の御首だと思ってきたわけですが、この調査で実は泰衡様のものであると確定されました」

2015-03-25 22:16:31
奥州藤原氏bot @ou_fujiwara4

経清「この伝忠衡の首には多くの刀傷があった……『中尊寺』には法医学者の手によって各傷の様子が記述され、そこから傷のほとんどは殺害前の争いによってつき、また斬首が直接の死因だと推定された……<斬首が直接の死因>ってのは……つまり、……まあいろいろ察してくれ」

2015-03-25 22:22:10
奥州藤原氏bot @ou_fujiwara4

経清「……何というか、こういう解剖学的に淡々と描写された方がどんな凄惨な物語より惨たらしさを感じるよ。図解まで載せちゃって……この首についての描写は、私の口から言うのも憚られるので、知りたい人は『中尊寺』を見てくれ。……見ない方が良かったということになるかもしれないけど……」

2015-03-25 22:30:40

伝忠衡の首=四代目御館泰衡の首の証明

奥州藤原氏bot @ou_fujiwara4

経清「ともかく忠衡が兄に討たれる際に抵抗したと考えれば、刀傷が残るのも不思議ではないから刀傷だけでは誰の首か判別しがたい。しかし首には戦闘ではなく、刑罰的あるいは象徴的な意味で 付けられたような傷跡があった……」

2015-03-25 22:33:10
奥州藤原氏bot @ou_fujiwara4

経清「『吾妻鏡』を見ると、頼朝が泰衡の首に損傷を与えたことが書かれている。それはかつて彼の祖先の源頼義が前九年合戦のおり、安倍貞任の首に加えた損傷と同じものだった……頼朝は奥州合戦を前九年の再現にしようと目論んでいた。だから泰衡の首を貞任の首と同じように損壊させたわけだ」

2015-03-25 22:37:08

【補足③】

 頼朝の奥州侵攻が祖先・源頼義の前九年合戦の再現を目論んだものであり、日程合わせ(前九年で藤原氏の祖である安倍氏が滅んだ9月17日に奥州攻略が終了するよう計画)まで行われていたことは多くの研究者の間で指摘されているが、特に分かりやすい話は

・『図説平泉 浄土をめざしたみちのくの都』(大矢邦夫/河出書房新社/2013年)

に詳しい。

 安倍貞任は前九年合戦時の安倍氏の当主で、奥州藤原氏初代清衡の母方の伯父にあたる。康平5年(1062)9月17日の厨川の戦いで討死。

 頼朝が泰衡の首をどう取り扱ったかは『吾妻鏡』文治五年9月6日条を参照。

奥州藤原氏bot @ou_fujiwara4

経清「……それがどんな損傷なのか、再びで悪いけど私の口からはあまり言いたくないので控えさせてもらうよ」 季春「私達の心情的なものだけでなく、ここではあまり凄惨な描写はしないと最初に申しましたので……泰衡様……どんなにかお辛かったでしょう……」

2015-03-25 22:41:34
奥州藤原氏bot @ou_fujiwara4

経清「ともかく『吾妻鏡』にある頼朝が与えた損傷はひどく特徴的なもので、それが伝忠衡の首の傷跡と位置も形も一致した。それでこの首は忠衡ではなく泰衡だと確定され、何百年ぶりかに泰衡は供養されるようになった」 季春「なぜ忠衡様の御首とされてしまったのでしょう?」

2015-03-25 22:48:20
奥州藤原氏bot @ou_fujiwara4

経清「鎌倉の目を憚ったとか、秀衡の遺言を破り鎌倉に敗れた泰衡の首が金色堂に収められているはずはないという後世の人の思いとか、いくつか言われているけど真相はわからない。……忠衡のことは、いや国衡も高衡も、泰衡と同じように皆の心の内だけでも悼んでほしいと思うよ」

2015-03-25 22:53:10

泰衡の首に残る手当ての跡

奥州藤原氏bot @ou_fujiwara4

経清「首についてもう一言。泰衡の首は多くの傷があったが、実はそのうちいくつかは縫合されていた。おそらく首を取り返し金色堂に収めた奥州の誰かが、少しでもきれいな状態にしてあげようとしたのだと思う。季春君、ちょっと『中尊寺』から一例を引用してあげて」

2015-03-25 22:57:44
奥州藤原氏bot @ou_fujiwara4

季春「はい。『恐らく殆ど離断するばかりの第6及び第9創を縫合し、更にその上を絹の帯で結縛したもの』(33p)、また『切断部皮膚に一・五センチ間隔で縫合せた針孔を一〇個所ほど発見し、当時この外科的処置があったことが実証された。(略)記録にはあるが実物は初めてである』と……」

2015-03-25 23:04:01
奥州藤原氏bot @ou_fujiwara4

季春「どなたが手当されたか存知ませぬが、私からも礼を申したいです」 経清「そうだね……さて、少し話を変えて、泰衡の首桶と言えば、そこから出てきた蓮の種が有名だね」 youtube.com/watch?v=qcGC4_…

2015-03-25 23:07:26
拡大

蓮の種の発見

奥州藤原氏bot @ou_fujiwara4

経清「発見したのは植物学者の大賀一郎博士。彼は千葉で古代ハスを復活させたことで有名だ。首桶には百粒の蓮の種があり、開花実験を試みたが咲くことが無いまま中尊寺に戻された……残念ながら『中尊寺』にも『最終報告』にも大賀博士の他の著作にもこの蓮の話は無く、発見の詳しい経緯はわからない」

2015-03-25 23:11:53