一期一振と藤四郎兄弟【6/23更新】

太郎太刀を調べるために、真柄直隆に遡り、その上司の越前朝倉家を調べている内に増えた一期一振と藤四郎兄弟についての情報と妄想の忘備録 6/23まで追加
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フラワードクトリン@東5テ33a @flowerdoctrine

太郎太刀と次郎太刀の来歴を調べるために、真柄直隆の事を調べていたら、どうしてもその主君である越前朝倉家、特に最後の当主義景についても触れねばならず、その過程で一期一振と藤四郎兄弟(未実装組)がザクザク出て来て困惑している。朝倉家だけで何振あるんだ藤四郎兄弟。

2015-04-18 23:04:46

越前朝倉家にいただろう刀剣達

フラワードクトリン@東5テ33a @flowerdoctrine

越前朝倉家にいた藤四郎兄弟 ・一期一振 ・朝倉藤四郎 ・大阪新身藤四郎 なお史料から、後者の二つは朝倉滅亡後に信長の手に渡った事が確認できる(天正8年2月の茶会で、左文字(宗三??)、実休光忠、朝倉光忠、薬研達の藤四郎兄弟と一緒にお披露目されている)

2015-04-19 04:07:28
フラワードクトリン@東5テ33a @flowerdoctrine

なお、朝倉光忠に関しては、現時点で詳細な情報が得られていないが、名前から推測するに、朝倉藤四郎と同じく、滅亡した越前朝倉家の物で、実休光忠や燭台切光忠の兄弟と思われる。

2015-04-19 01:40:45
フラワードクトリン@東5テ33a @flowerdoctrine

一期一振は越前朝倉家の重宝だった説の裏を取るべく散々文書探したけど、宝物類は贈答記録しかなくて、 個人的売買や所有品の目録がないため、朝倉家にあったかは現時点不明。 その代り、朝倉孝景(義景の父)の時まで鬼切がいたのは解った。一期一振も同時期にいたなら天下の名刀が2つあったことに

2015-04-27 22:35:59
フラワードクトリン@東5テ33a @flowerdoctrine

ただ、名剣鬼切という表記なので、これがかの鬼切安綱だったかどうかは不明。 この鬼切は、景隆が時の将軍の側近に取り立てられた御礼として、当時の将軍に色々な貢物(金銭や馬など)と一緒に差し出され、将軍が、御内書(将軍の私信だが公文書に匹敵する効力有)を返礼している

2015-04-27 22:57:44
フラワードクトリン@東5テ33a @flowerdoctrine

ちなみに、朝倉孝景が将軍様に、側近に取り立てて貰った御礼を差し出したのが天文7年(1538年)のことなので、名剣鬼切(鬼切安綱かは分からない)が、越前朝倉家にあったのもその時まで。なので、この年までに一期一振が越前朝倉家にいれば、顔を合わせたことくらいはあるんじゃないかな

2015-04-27 23:00:24

天正8年2月、信長上洛の折の茶会

フラワードクトリン@東5テ33a @flowerdoctrine

話がそれるが、天正8年2月、上洛にあたり催されたこの茶会で義元左文字(宗三)や不動国行に実休光忠や薬研藤四郎を含めた計22振程の刀剣が、お披露目された。京までわざわざ持ちこむのだから、価値が高いか信長お気に入りと考えられる。この中に、後の燭台切光忠はいたんだろうか?

2015-04-19 01:58:00
フラワードクトリン@東5テ33a @flowerdoctrine

何しろ、燭台切の名が付くのは後年伊達家でのことなので、この時点では大勢の光忠の中の1振。なので、資料にあるただの光忠が後の燭台切光忠かもしれないし、違うかもしれない。茶会にいたなら、数ある光忠の中で比較的信長のお気に入りだったと考えられるし、いないならそういうことだ

2015-04-19 02:07:37
フラワードクトリン@東5テ33a @flowerdoctrine

なお、黒田官兵衛が中国征伐において策を進言したのが、天正3年。へし切長谷部は、献策の褒美として黒田に授けられたとされるため、この天正8年上洛の際の、信長の推し刀剣お披露目茶会のメンバーに、おそらくいない。へし切長谷部の地雷がまた一つ。

2015-04-19 02:29:40
フラワードクトリン@東5テ33a @flowerdoctrine

改めて確認したら、左文字はいるけど義元とは書いてないから、宗三は不参加かもしれない。それと、光忠シリーズは、朝倉光忠、実休光忠以外には、小光忠がいて、燭台切が参加してるとすればここなんだけど、燭台切そんな小さくもなかったよね??だから燭台切は茶会にはいなかった可能性高そう

2015-04-19 05:03:01

朝倉家にいた藤四郎兄弟の詳細

フラワードクトリン@東5テ33a @flowerdoctrine

話を朝倉家にいた藤四郎兄弟に戻すと、 朝倉藤四郎は、越前朝倉家最後の当主義景が、永禄2年に京に赴いた際、細川伊豆守の持っていた短刀を譲り受けた物で、その後信長の手元にあり、色々あって青山幸成から井伊直政へ、最終的に春日局の息子の稲葉正則が買い取って、将軍綱吉に献上しされた

2015-04-19 02:56:52
フラワードクトリン@東5テ33a @flowerdoctrine

細川伊豆守は、細川幽斉の養父だったという説のある人で(一般的な説では幽斉の父方の叔父元常、あるいは従兄弟晴貞が養父だとも)、歌仙兼定の持主である細川忠興からすると、義理のおじいちゃんにあたるかもしれない人です。 また、細川家も藤四郎いっぱい持ってるんだよ…。

2015-04-19 03:09:53
フラワードクトリン@東5テ33a @flowerdoctrine

越前朝倉家にいた藤四郎兄弟で、もう一つ有名なのが(大阪)新身藤四郎かな。 これは越前朝倉家代々のお宝で、朝倉家滅亡後は信長の手に渡り、信長死後は秀吉へ、そして最終的には秀頼の物になって、 大阪夏の陣で焼け落ち、現在は所在が分からない

2015-04-19 03:26:59
フラワードクトリン@東5テ33a @flowerdoctrine

また、大阪新身藤四郎については、姉川の戦い後、和睦の贈り物として信長に渡されたという説もあった

2015-04-19 04:12:43

一期一振について主張バラバラの文献(著者は同じ)

フラワードクトリン@東5テ33a @flowerdoctrine

刀剣談(高瀬真卿)と詳註刀剣名物帳(羽皐隠史)で、一期一振について書いてあることが全く違ってて、しかもこの2冊の著者が同一人物らしい、というので困惑している。以下、一期一振について言及した部分の抜粋意訳

2015-04-19 14:53:11
フラワードクトリン@東5テ33a @flowerdoctrine

刀剣談の一期一振部分の意訳 『吉光には短刀は沢山あるけど刀はこの一振だけ、そこで細川幽斉が一期一振りと名前を付けた。細川の前は誰が持ってたか分からん。信長記に、信長が信孝に吉光の太刀を賜ったという記録があるが、この一期一振の事であろうと思われる』

2015-04-19 15:07:03
フラワードクトリン@東5テ33a @flowerdoctrine

刀剣談の一期一振部分の意訳➁ 『その後、秀吉が幽斎にねだって秘蔵し、秀吉から秀頼に伝わって、大阪落城の時に焼けてしまったので、家康が越前康継に命じて再刃させ、そこから紀州の頼宣に渡って、その後また幕府に戻り、維新後に御物になった』

2015-04-19 15:20:59
フラワードクトリン@東5テ33a @flowerdoctrine

詳註刀剣名物帳の一期一振注釈部分の意訳 『この刀も明暦3年の火事で焼けたのを越前康継が再刃し、その時に直刃になってしまった。一期一振と名付けられたのは、粟田口藤四郎の作ったのが短刀か薙刀しかなく、太刀はこの世にこれ以外にないから、故に一代一刀という意味で後世の人が名付けた』

2015-04-19 15:33:59
フラワードクトリン@東5テ33a @flowerdoctrine

詳註刀剣名物帳の一期一振注釈部分の意訳➁ 『これ、太刀の伝来を考えるに、どこの書にもそんな記載はない。信長公記に、信孝は信長から吉光の刀を貰ったとあり、それを根拠に、これが一期一振ではないかと思う者がいる。しかし、これは太刀ではない。』

2015-04-19 15:42:46
フラワードクトリン@東5テ33a @flowerdoctrine

詳註刀剣名物帳の一期一振注釈部分の意訳③ 『その詳細は、単に刀と言えば、太刀に限ったことではなく、脇差、短刀も皆同じように刀と言うのだ。だから、刀と書いてあるからと言って、直ぐにこれが吉光の太刀だと考えるのは早合点というものである。またこの太刀については毛利家記に記録がある』

2015-04-19 15:51:03
フラワードクトリン@東5テ33a @flowerdoctrine

先生、数年前に自分が書いた事をサラッと人のせいにするのはやめましょう

2015-04-19 15:55:04
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