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Enrico Isamu Ōyama @enrico_i_oyama
さて『20世紀末・日本の美術ーそれぞれの作家の視点から』、本編のシンポ記録などだいたい読了。90年代の日本のアートシーンをあまり知らなかったので、普通に勉強になりました。個人的にはーある種の偏りも含めー永瀬さんの存在があることで議論にかなり複合性が出ていたのではないかと思う。
Enrico Isamu Ōyama @enrico_i_oyama
批評の切断機能に触れながら、ゼロ年代日本における地域アートの隆盛と美術批評の衰退という二つの現象を、「新自由主義経済によってバラバラにされた社会における共同性の再創出への欲望」というひとつの原理から導き出されるものとして、ある種結びつけて捉える視点にはなるほどと思った。
Enrico Isamu Ōyama @enrico_i_oyama
しかし、これもやはり永瀬さんが書いている通り、批評という営みからも共同体が生まれる。とくにインターネット普及以降は、そうした繋がりは育みやすい。切断を呼び込むはずの批評行為が共同性をもたらすというのはある種、矛盾にも聞こえるけど、これは単に2層構造として考えればいいのだろうな。
Enrico Isamu Ōyama @enrico_i_oyama
小さい頃、うちの父は休日によくイタリア人の友人を家に招いて昼食会をやっていた。イタリア人というのは、日本人から見ると大ゲンカしているのではないかというすごい勢いで、政治や経済について議論する。しかし議論がひと段落すると、またケロっとした感じで、何事もなかったように普通のトーンに。
Enrico Isamu Ōyama @enrico_i_oyama
それが不思議で仕方なくて、ある日、父親に「よくあれだけ言い合った後に、また仲良くできるね」と聞くと「政治的信条や思想的背景が異なっていても、それはそれで友情の次元とは区別されている」というようなことを言っていたっけな。そういう二層構造が機能している状態は、批評的に健全とも言える。
Enrico Isamu Ōyama @enrico_i_oyama
そして片方の位相で激しく議論が交わされれば交わされるほど、もう一方の位相ではある種の連帯感や親近感が生まれるというか…まあ試合の後に握手して相互に称え合うスポーツ選手みたいなものか…。そうした住み分けがうまくできないと、批評と批判、作品批評と人格攻撃などを取り違えることになる。
Enrico Isamu Ōyama @enrico_i_oyama
こうした取り違いが、日本の美術シーンにしばしば見られる批評アレルギーの根っこにあるのではないか。永瀬さんの図式に倣い、地域アート的共同体と批評の共同体を対置するなら、前者は切断と連帯が同一平面上で衝突する一元的共同性、後者はそれらが住み分けされる二元的共同性と言えるかもしれない。
Enrico Isamu Ōyama @enrico_i_oyama
換言すれば批評というのは、そのための独自の位相、現実の社交原理や利害関係から切り離された、それ自体で完結する批評のための空間というのを確保しなければ、とくに現代社会では成立が難しいかもしれない。ある種のネット空間、例えばツイッターも、うまくいく場合そうした空間の創出として機能する
Enrico Isamu Ōyama @enrico_i_oyama
と言いつつ、もちろんそれは、やはり何かしら現実にフィードバックされないと無意味…なので、いったん切り離したうえで、あとから綜合するというか、フィードバックさせるという技術が必要なのかもしれないな。議論の生産的なところ、自分にとって役立つ部分を、各々が事後的に咀嚼していくというか。
Enrico Isamu Ōyama @enrico_i_oyama
作品と人格は根本的にはやはり深層で結びつくはずなので、作品批評をいったんは独立したものとして受け止めることで感情的な反応は抑制しつつ、少しずつ飲み下すことで新しい人格の糧にしていくという、自己批判と新陳代謝のプロセス。一元的な共同性にはこうしたプロセスを駆動させる「距離」がない。
Enrico Isamu Ōyama @enrico_i_oyama
二層化された主体性はポストモダン的とも言われるけど、近代的な自己批判 というのも、そもそも主体が二層化されてないと起こり得ない。違いはどちらかというと、その二層が相互にどういう関係を結んでいるか。つまり単なる「解離」なのか、それとも新陳代謝のなかから「創発」を生み出せているのか。
Enrico Isamu Ōyama @enrico_i_oyama
つまり単に一元的な主体性/共同性でも、解離した二層構造(=二つの一元性が無関係に並んでいるに過ぎない)によるそれらでもなく、二層の創発のサイクルから新しい人格や作品が生み出され続けるプロセスとしてアート活動を捉えること。批評的切断がその一輪を、共同体的接続がもう一輪を担っている。
Enrico Isamu Ōyama @enrico_i_oyama
もう一輪が「共同体的接続」であるというのは、つまり無人島では批評も何もあったものではない。何かしらの社会関係に置かれて初めて批評的切断もあり得るという意味で、接続と切断のサイクルが大切ということ。要は、週に4日制作したら、後の3日は社交してればよいんです…。いや制作が5日かな…。
Enrico Isamu Ōyama @enrico_i_oyama
まあ僕は本当は、週7日制作していたい人間なんですけどね。
Enrico Isamu Ōyama @enrico_i_oyama
いや、やはり週7日制作しよう。作家に残された時間は少ない…。
土屋誠一 @seiichitsuchiya
あ、転向したw。でも、社交もほどほどにないと、存在してないことになりますからね。こういうツイッターしかり。 RT @EnricoLetter いや、やはり週7日制作しよう。作家に残された時間は少ない…。
Enrico Isamu Ōyama @enrico_i_oyama
@seiichitsuchiya 転向です…というのは冗談ですが、永瀬さんが本で「90年代には"気付かれていなかった"けど、黙々と絵を描き続けていた一群の人たちがいた」と言っていて、それがネット以降は可視化されるようになったという話で、そう考えると今は活動しやすい世の中だなぁと。
永瀬恭一 @nagasek
大山エンリコさん @EnricoLetter から「20世紀末・日本の美術」についてコメント頂いています。今ちょっと手が離せないので、時間できたら応答しようかと。

コメント

言葉使い @tennteke 2015年5月7日
諸外国は知らないけど、日本人の「意見」てのは、システムの上に構築されているからでは?新幹線の輸出が車両単体の販売ではなく運行システムとかのセット売りになっているように。だから表に出たところを「違う」と言われると、もっと根っこの、意識の奥深いところまで考え直さないといけなくなる。
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