「密教の身体性」をめぐる goyouさんと ooo157さんのやりとり

密教に身体を伴った修行は必要なのか。性的なものを含まない密教はありうるのか。goyouさんとooo157さんのやりとりをまとめてみました。
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佐藤剛裕 @goyou

だいたい、金剛頂経と大日経の時代の密教に性的な要素が含まれないとしている時点で、何もわかってないのだと思いました。

2010-12-21 20:49:34
佐藤剛裕 @goyou

@ykaise まずもって、性的な修行とそうではない修行の線引きが難しいです。それに空海以前に伝わっていた初期雑密のシンプルな本尊の成就法にも、性的な要素が全く含まれないものはないです。密教というもの全体が全体が性的な修行法ですから。

2010-12-21 21:20:12
佐藤剛裕 @goyou

そもそも性的な要素を含まない密教なんてものがあるというのが幻想だ。煩悩則菩提とか即身成仏とかってなんの話だという。

2010-12-21 21:24:32
o @ooo157

@goyou 密教に性的な要素が必然だというのは誤解だと思いますね。以前にもいいましたが。私は密教は認識の転換だと理解してます。少なくともクリヤータントラ以上では、空性の体験が前提となっているのではないかと思います。ヨーガタントラ以上では明瞭ですね。基本はタクナン、認識の問題。

2010-12-21 23:04:20
佐藤剛裕 @goyou

@ooo157 「性的な要素」ってなんですか?必ずしも異性のパートナーの身体を借りる必要はないというなら分かりますが、輪廻と解脱は不二ですから、人間の認識というもの自体が清浄であると同時に、性的でもあるということを否定しちゃいかんとおもうんですけれど。態度として。

2010-12-21 23:38:03
佐藤剛裕 @goyou

@ooo157 だし、中央脈管を浄化するようなヨーガの身体技法が必要ではないといってしまうのならば、それはいわゆる密教じゃないですよね。禅とかゾクチェンなどの因果によらない文字によらない教えであればそれでいいでしょうが。

2010-12-21 23:39:56
o @ooo157

@goyou 「性的な要素」って言い出したのはゴーユーさんなんですが? 「性的でもある」ことはただの縁起だから、あるがままで、その場合、伝統仏教なら「因果」を否定しない、あるいは自分の行為は「因果」の中で抑制するというと思います。つまり、社会習慣に従うことも含みます。

2010-12-22 06:19:28
o @ooo157

@goyou ツァルンとかが密教というのは誤解でしょう。それは間違いない。密教というのは認識変換ですよ。それは間違いない。ゴーユーさんの仰る身体性というのは恐らく中沢さんあたりの言葉なんでしょうが、伝統仏教に根拠があるんですか? 

2010-12-22 06:22:53
o @ooo157

@goyou 律を受けるのに五体満足である人身がいるとか、人身があるからツァルンができる程度の言葉しか知りません。逆に密教では意成身の方が効果的な行ができるとかいいませんか? この場合、意成身といっても、色がない自相続で所謂身体性はないと考えますが?

2010-12-22 06:26:30
佐藤剛裕 @goyou

@ooo157 身体性というのは、ツェチク・ルーチク、則身成仏のことですよ。

2010-12-22 16:09:01
佐藤剛裕 @goyou

@ooo157 密教における認識の変容には身体感覚の変容が大きく介在していると思います。ゾクチェンはその限りではないですが。

2010-12-22 16:23:00
佐藤剛裕 @goyou

@ooo157 チベットの仏教史において、僧院組織を強化するに従って、理論的にも実践的にも身体性を軽んずる傾向が高まっていることには問題を感じています。ニンマ派でも同じことが起きている。

2010-12-22 16:32:31
佐藤剛裕 @goyou

@ooo157 意成身とか微細身とかに身体性がない、ゆえに性的要素とのつながりもないっていう論法はぜんぜんわからないわ。身っていう字はなんのためについてるのかと。三身説だって身体意識の変容の話じゃないのかと。

2010-12-22 18:11:07
佐藤剛裕 @goyou

密教の教えは、帰依や発菩提心のような大乗仏教の基幹となる概念も身体をもって理解することから始まると説いている。

2010-12-22 18:30:45
佐藤剛裕 @goyou

帰依と発菩提心こそが生起次第と究竟次第の基ですよね。

2010-12-22 18:34:49
佐藤剛裕 @goyou

文字に書いてあることが全てではないです。

2010-12-22 18:35:47
佐藤剛裕 @goyou

顕教のテキストにも、帰依を完成させることで肉髻相が出ると書いてあります。アティーシャの言う帰依とはそういうレベルを含んだ教えでしたが、ドムトンパのような弟子が拭い去ってしまったのは大きな損失。ダルマリンチェンがツォンカパの教えを痩せ細らせたのと同じ政治構造。

2010-12-22 18:40:38
佐藤剛裕 @goyou

宗教が政治構造に巻き込まれるときに、教えの本質が変化してしまうという問題なんです。

2010-12-22 18:41:54
佐藤剛裕 @goyou

宗教が身体性を軽視して戒律とか論理学を重んじるようになると、形骸化していくんです。民衆の手を離れて、エリートだけのものになっていってしまう。

2010-12-22 19:12:42
佐藤剛裕 @goyou

元来、祈ったり瞑想したりということは、誰のものでもないです。

2010-12-22 19:14:59
佐藤剛裕 @goyou

タントラの危険性をことさらに強調する人に限って矮小化した理解しかしていない件。

2010-12-22 19:59:31
o @ooo157

@goyou 「意成身とか微細身とかに身体性がない、ゆえに性的要素とのつながりもないっていう論法はぜんぜんわからないわ」前件は言ったが、後件はいってない。ゴーユーさんは論理性がないんだわ。それにカーヤというのは身と訳すけど、身体・肉体という意味ではないんですよ。

2010-12-22 20:13:47
o @ooo157

@goyou どういう意味で身体性と言っているのかさっぱり分かりませんが、昔、津田真一先生が、クリティカルということを言い出した時、大日経と金剛頂経が相容れないと言っていました。その根拠の一つに徳一の『真言宗未決文』を挙げていました。密教は観行ばかりで身体的行がないということです

2010-12-22 20:19:39
o @ooo157

@goyou これを受けて津田先生は金剛頂経にはプラクシスがないといっていた。彼の言うプラクシスとは肉体的行のことで、普賢行、六ハラミツも肉体的にやらないとダメなんだみたいなことを言っていました。これは少なくともヨーガタントラ以上に対する理解の欠如を示しています。

2010-12-22 20:22:53
o @ooo157

@goyou なぜかというと、密教の見解が上がれば上がるほと、微細な認識を変えることが行になるからです。全てはそこに集約され、身体的な行をしなくても認識・観想で膨大な行をするのが密教です。『普賢行願讃』に説かれる原子一つに無数の仏国土があるこは、顕教なので果なのですが、

2010-12-22 20:26:58