「ストレンジャー・ストレンジャー・ザン・フィクション」 #1
コメダ・ストリートを女一人が出歩くのはなかなかにタフだ。ましてそこに住むとなれば、危険のほどは言うまでもなかろう。しかしながらアガタ・マリアはどうにかこうにか、安アパート「エトワール・コメダ」で三年目の賃貸契約の更新を行うに至った。
2010-12-12 18:36:05ネオサイタマにおいて、企業体に属さず親族との繋がりも無いアガタのような人間がまともな部屋を借りる事は不可能である。彼女の前に立ち塞がるのは「保証人制度」という強固極まりない相互管理システムだ。
2010-12-12 18:49:18賃貸契約を結ぶためには、誰かしら、堅実な生活基盤を持つ人間が身内にいなければならない。今のアガタには頼るべき家族は無く、サラリマンIDのバーコード刺青も無い。フリーランスのアガタがどれだけカネモチであろうと、選択肢はこのコメダ界隈のような、胡乱な地域におのずと限られてしまうのだ。
2010-12-12 18:59:06アガタはたすき掛けにしたショッピング・バッグを両手でしっかりと抱え、夜を迎えようとするコメダ・ストリートをうつむき加減に小走りで歩く。
2010-12-12 19:19:28半開きのゴミ箱からよく太ったネズミが飛び出し、道路の反対側の排水溝に潜り込む。頭を上げると、建物から建物へ渡されたタコ糸にステテコやカッポーが干され、その隣にとまった数羽のバイオカラスがキョロキョロとエサを伺っている。
2010-12-12 19:24:01アガタはカラスにバッグの中身を感づかれないよう気をつけながら、アパート焼け跡の横を通り過ぎる。その建物は先週に全焼し、放置されている。住人が違法にワライタケを栽培しており、マッポによる手入れの際に証拠隠滅をはかって建物ごと燃やしてしまったのだ。
2010-12-12 19:38:57逮捕された住人の罪は数十倍になったが、コメダ・ストリートの価値観とはそういうものだ。後先考えないのである。
2010-12-12 19:40:59アガタは37才であるが、幾重にも防塵カーディガンや防重金属酸性雨コートを重ね着し、貧相な老婆のシルエットを工夫して作っている。そうでもしないと、例えば……今まさに焼け跡の陰からじっとアガタを見つめている性犯罪サイコの餌食になってしまうだろう。
2010-12-12 19:56:36「安普請と?」とポップ体で書かれたネオン看板の店を通り過ぎると、ようやくエトワール・コメダにたどり着く。入り口付近で獣のようにじゃれあっている子供たちを油断無く睨みつけながら、アガタは素早くアパート内に入る。アコーディオンドアのエレベーターを操作し、八階へ。
2010-12-12 20:00:44エレベーターの上昇の中で、アガタはほっと胸を撫で下ろす。今日はサバマートのタイムサービスで想像以上の収穫があった。危険を犯してこの時間に遠出した甲斐があったというものだ。コメダ地域には宅配スシもなかなか近づかない。買い置きの食料は生命線である。
2010-12-12 20:09:33「八階につきました」ディストートした合成音声が告げ、アコーディオンドアが開いた。アガタの部屋は807号室である。「……!」自分の部屋の扉の前に立つ人影に気づき、アガタは緊張した。すでに日は暮れ、壁に設置された小型ボンボリの蛍光ライトが、男の長身を黄緑色に照らしている。
2010-12-12 20:52:29アガタは離れた位置で少し様子を見ようと考えたが、男がアガタに気づいてしまった。男は無言でアガタを見つめた。ハンチング帽を目深にかぶり、バッファロー革のトレンチコートを着ている。
2010-12-12 21:08:32「あのう……私に何か」アガタは恐る恐る聞いた。右手をコートのポケットに入れ、護身用スタン・ジュッテを探る。男はしばらく沈黙していた。蛍光ボンボリに蛾がたかり、音を立ててはぜる。
2010-12-12 21:14:30と、男は素早くオジギし、「ドーモ。807号室の方ですか」その手に持った厚みのある封筒を掲げて見せる。「あなた宛の郵便物が誤配されていましたので。808号室のイチロー・モリタです。先週に入居しました」
2010-12-12 21:23:20「あら、ドーモ、はじめましてイチロー=サン。アガタ・マリアです」アガタはオジギを返し、封筒を受け取った。「これは失礼しましたわ、私ったら。ありがとうございます」「……いえ、私が留守がちなものですから。今までアイサツできず」お互いに謝罪する。奥ゆかしい!
2010-12-12 21:54:02「あら、ドーモ、はじめましてイチロー=サン。アガタ・マリアです」アガタはオジギを返し、封筒を受け取った。「これは失礼しましたわ、私ったら。ありがとうございます」「……いえ、私が留守がちなものですから。今までアイサツできず」お互いに謝罪する。奥ゆかしい!
2010-12-13 20:18:40「では、オタッシャデ!」男は再度素早くオジギしたのち、808号室の軋む金属扉を開けて自室に退散した。アガタはほっと一息ついた。恐ろしいサイコやヨタモノの類では無さそうだ。去り際、廊下に鉄サビのような匂いが一瞬漂ったが、アガタは気に留めなかった。
2010-12-13 20:26:57807号室のドアを開け、ブーツを雑に脱ぎ捨てて、アガタは狭苦しい住処へ帰還した。台所と茶の間しかない。茶の間が作業場である。台所のカゴに買い物袋の成型ジャガイモを移し替える。これだけあればしばらく芋モチには困らない。アガタは機械的な手つきでリモコンを操作し、テレビの電源を入れた。
2010-12-13 20:34:28「ラッシング重点!ハントでポン!」「ワー!スゴーイ!」司会者のタイトル・コールに合成音声の合いの手が被さる。アガタはそれを横目で見ながら、鉄瓶を電気コンロにかけ、湯を沸かす。冷蔵庫には締め切りスケジュールをメモした紙が複数貼られている。
2010-12-13 20:41:41「ほらほら、あんまり持ってると、重くなりすぎてしまいますよ?」「困ります!アー!持てなくなります!」「さあ、あと12秒だ!」……ハハハ、とアガタは乾いた笑いをテレビに投げかける。重ね着していた上着を押し入れのクローゼットに押し込み、沸いた鉄瓶の湯でクズユを作る。
2010-12-13 20:46:43封筒を開けると、オイランがテンプラをかじるどぎつい表紙の本である。「ネオサイタマ・アンリアル・ビストロガイド」の献本だった。この本のコラムの挿絵をアガタが描いたのだ。「ふうん、ようやく出たんだ」アガタは呟いた。ギャラの支払いまでに半年以上待たされたが、そこそこ楽しかった仕事だ。
2010-12-13 21:06:16「ハイ!それはきっと、大根工場でしょう!」「きっとはいけません、カワノ=サン。憶測はダメですよ!」「えーと、じゃあ、大根工場!」「アタリ!」「ワー!スゴーイ!」……ハハハ、とアガタは乾いた笑いを口に出し、クズユを飲んだ。
2010-12-13 21:10:53窓の外、下のストリートで衝突音が轟き、悲鳴が届く。「アイエエエエ!」おおかた、三輪バイクがゴミに足をとられて転倒するなりしたのだろう。コメダではチャメシ・インシデントだ。アガタはテレビをぼんやり眺めたまま、窓から顔を出して確かめることもしない。
2010-12-13 21:20:30