「社会・物語・詩・ゲーム」について

23日の休日に浮かんでつぶやいた言葉をまとめました。 とりとめのない、さまざまなテーマを渡る言葉たちです。
15
三宅陽一郎MiyakeYouichiro @miyayou

人を狂気やイデオロギーで支配したものはまた、自らの狂気やイデオロギーを先鋭化することで、求心力を維持せざるを得ない。これが悲劇の始まりである。

2010-12-23 15:53:06
三宅陽一郎MiyakeYouichiro @miyayou

我々は長い歳月を経て、人間として手を結び合うことを覚えねばならない。人間の実存と、実存の関係において、社会を実現する術を学べねばならない。それはとても難しいことで、青年期において一瞬垣間見える友情や理想の姿は社会では矢折れ尽きつるとも、未来はきっと、その向こうにあるのだ。

2010-12-23 16:06:26
三宅陽一郎MiyakeYouichiro @miyayou

暖かい部屋に入ってはじめて、自分が凍えていたことがわかる。今の僕の心も、自分ではわからないけれど、凍えているのだろう。寒くない、凍えていないと思えてはいても、こんな休日には、心は理想の女性を求めて、冬の夕焼けを眺めるのだ。

2010-12-23 16:12:05
三宅陽一郎MiyakeYouichiro @miyayou

人生は短く、人が経験できる世界もまた狭い。だからこそ我々はお互いの経験を伝え合うことで人生を豊かにすることが出来る。高層ビルで働く人から、列車を動かす人から、深い地下で働く人から、高い宇宙で働く人から、数学者から、土木建築技師から、様々な人の経験を分かちあってこそ世界は豊かになる

2010-12-23 16:14:56
三宅陽一郎MiyakeYouichiro @miyayou

ゲームはまた自然発生するものでもある。経済から進化まで、それをゲームとして捉えることは可能だ。しかし、通常のゲームと異なる点は、その主人公たちが自分がゲームをしていると思っていないことだ。競馬で馬はスポーツレースをしていると思っているが、賭けをする人は別種のゲームを体験している。

2010-12-23 16:24:07
三宅陽一郎MiyakeYouichiro @miyayou

僕はやはりこの人類の持つ性のシステムが好きでない。男性というロールを装うことに、僕は深い異和感を覚える。

2010-12-23 16:25:45
三宅陽一郎MiyakeYouichiro @miyayou

比喩的な意味において、光を失ったものは、同時に闇をも失っていて、影の中に住んでいるに過ぎない。それは不安定な状態で、生きている者の輪郭をうまくつかむことが出来ない。そういったものは深い森の中で、さらに深い洞窟の底で、新しい光を見つけなければならない。それがおまえと世界を繋ぐだろう

2010-12-23 16:47:20
三宅陽一郎MiyakeYouichiro @miyayou

概念としてのゲーム、現象としてのゲーム、この二つはまず分けて考えねばならない。概念としてのゲームは論理と構造に属するものであり、現象としてのゲームは構造と動力学に属するものである。一方は静的な形式において、一方は動的な運動においてゲームを捉えようとする。

2010-12-23 17:33:48
三宅陽一郎MiyakeYouichiro @miyayou

物語は大網を広げて魚を捕まえることと似ている。まず風呂敷を広げる。そして、動かす。最後に畳む。その過程でどんなものが捕まえられているか、引き上げてみないとわからないのだ。

2010-12-23 17:35:57
三宅陽一郎MiyakeYouichiro @miyayou

自分の中の高貴に思える心の震えを、誰かに伝えたいと思う、このまま消えてしまうのが惜しい、そう思って、僕は詩を書く。どうか、詩と真実が、人々のもとにありますように。

2010-12-23 17:42:16
三宅陽一郎MiyakeYouichiro @miyayou

あらゆる現象は発生するものである。人がその一面を捕らえてゲームとするなら、ゲームもまた発生したものと言える。だから、ゲームはゲームだけで発生しない。常に、一つのまとまった現象として世界に現れる。概念としてのゲームは、その現象の捉え方を教えるだけだ。とすると問題は逆転する。

2010-12-23 18:09:58
三宅陽一郎MiyakeYouichiro @miyayou

[承前]何がゲームであるか、を探求し定義するよりも、我々が、何がゲームであるかを定義し、実際にそうなるかを実験してみることが、ゲームの追及になる。実際、ゲーム開発の現場は、それはゲームになるか、という問いの連続である。

2010-12-23 18:11:20
三宅陽一郎MiyakeYouichiro @miyayou

[承前] DiGRA JAPAN 大会のラウンドテーブルでも議題になったが、ゲーム製作者は常に新しいゲームの定義を見出そうとする。一方で、研究者は、全てを包括する枠組みを構築しようとする。そこには捕まえようとするものと、逃げ去ろうとするものの、追いかけっこが実現されている。

2010-12-23 18:15:52
三宅陽一郎MiyakeYouichiro @miyayou

[承前]スキゾフレニーな開発者とストラクチャーな研究者は、お互い刺激し合える。捕まえた、逃れた、そんなレースを激しくくり広げることが、本来、どんな芸術分野でも大切なことである。未だゲームに正当な批評空間は存在しない。それは、お互いにとって損なことだ。両者を盛り上げなくてはならない

2010-12-23 18:18:31
三宅陽一郎MiyakeYouichiro @miyayou

本来創造は無形なるもののを粘土細工するようなものであるから、上から被せた構造を突き破る力を持っている。しかし言葉を使う者は言葉による生成物にこそ捉われ愛するものであるから、そういった無形なるものを常に言語化しようとする。同時に無形なるものは発展する。ゲームとゲーム理論の関係である

2010-12-23 18:32:29
三宅陽一郎MiyakeYouichiro @miyayou

[承前]開発者にとって重要なのは、外的な枠ではなくて、内部から形の発展を促すような何者か、力、勢い、流れのようなものである。常にそれは枠からはみ出して、枠を超えて発展して行くものである。同時に巧みに用意さえた概念や言葉は、超えることを許さない。それが優れた理論である。

2010-12-23 18:34:40
三宅陽一郎MiyakeYouichiro @miyayou

[承前] 例えば、インタラクティブという言葉、この言葉にゲーム開発者は負けてしまった気がする。ゲーム=インタラクティブ、というのもあたり前になってしまった。これは言葉の側の勝利だ。でも僕は、インタラクティブを超えて新しいゲームが作られると思っている。それが開発者の逸脱する力だから

2010-12-23 18:36:01
三宅陽一郎MiyakeYouichiro @miyayou

[承前] しかし、これは結局、無形なるものと言葉の逸脱・束縛の行為の連続は、終わらない戦いである。言葉が無形なるものの発展の源泉にたどりつくことはないし(そんなものは開発者でさえわからない)、無形なるものは自身の法によって発展するのであって言葉に沿って発展するのではない。

2010-12-23 18:43:11
三宅陽一郎MiyakeYouichiro @miyayou

[承前] 本来、無形なるもの、世界に内在する運動を言葉は捉えることはない。しかし、芸術においては、創造する人間を介して言葉と運動が刺激しあうことが出来る。それが批評の空間である。芸術における批評や理論は、芸術家を刺激することで、創造の仕方と相互作用することが出来る。

2010-12-23 18:44:42
三宅陽一郎MiyakeYouichiro @miyayou

[承前]ゲームが巨大なものになればなるほど、ゲームにおける批評の役割は大きい。しかし、現在、日本においてゲームの批評の力は弱く、かつ遠い。それが許容されるのは、日本のゲーム自身も弱体化しているからである。両者が刺激しあう環境を構築することが、今後の長期的な発展に必要なことである

2010-12-23 18:46:32