2015年5月12日

「20世紀末・日本の美術」から「新しき場所」へ

ART DIVER刊『20世紀末・日本の美術ーそれぞれの作家の視点から』(中村ケンゴ編著)の、主に第二部の批評と共同性に関する話題から始まった対話の記録です。 まとめ主は「20世紀末・日本の美術」の共著者の一人です。 90年代以後ゼロ年代にかけて新自由主義的経済が学校・会社や地域社会といった中間集団を解体した後の美術/批評の在り方と、美術/批評がもたらしうる繋がりと切断の契機が「新しき場所」(書中の言葉を使えば「ネクストステップ」ですが)を開示できるか、という僕の関心からまとめています。 続きを読む
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大山エンリコイサム(アーティスト):
著作に「アゲインスト・リテラシー ─グラフィティ文化論」http://www.amazon.co.jp/dp/4864800146/ref=cm_sw_r_tw_dp_wPFuvb10TY0WR

Enrico Isamu Oyama @enrico_i_oyama

さて『20世紀末・日本の美術ーそれぞれの作家の視点から』、本編のシンポ記録などだいたい読了。90年代の日本のアートシーンをあまり知らなかったので、普通に勉強になりました。個人的にはーある種の偏りも含めー永瀬さんの存在があることで議論にかなり複合性が出ていたのではないかと思う。

2015-05-06 15:07:41
Enrico Isamu Oyama @enrico_i_oyama

批評の切断機能に触れながら、ゼロ年代日本における地域アートの隆盛と美術批評の衰退という二つの現象を、「新自由主義経済によってバラバラにされた社会における共同性の再創出への欲望」というひとつの原理から導き出されるものとして、ある種結びつけて捉える視点にはなるほどと思った。

2015-05-06 15:10:21
Enrico Isamu Oyama @enrico_i_oyama

しかし、これもやはり永瀬さんが書いている通り、批評という営みからも共同体が生まれる。とくにインターネット普及以降は、そうした繋がりは育みやすい。切断を呼び込むはずの批評行為が共同性をもたらすというのはある種、矛盾にも聞こえるけど、これは単に2層構造として考えればいいのだろうな。

2015-05-06 15:13:28
Enrico Isamu Oyama @enrico_i_oyama

小さい頃、うちの父は休日によくイタリア人の友人を家に招いて昼食会をやっていた。イタリア人というのは、日本人から見ると大ゲンカしているのではないかというすごい勢いで、政治や経済について議論する。しかし議論がひと段落すると、またケロっとした感じで、何事もなかったように普通のトーンに。

2015-05-06 15:16:36
Enrico Isamu Oyama @enrico_i_oyama

それが不思議で仕方なくて、ある日、父親に「よくあれだけ言い合った後に、また仲良くできるね」と聞くと「政治的信条や思想的背景が異なっていても、それはそれで友情の次元とは区別されている」というようなことを言っていたっけな。そういう二層構造が機能している状態は、批評的に健全とも言える。

2015-05-06 15:18:43
Enrico Isamu Oyama @enrico_i_oyama

そして片方の位相で激しく議論が交わされれば交わされるほど、もう一方の位相ではある種の連帯感や親近感が生まれるというか…まあ試合の後に握手して相互に称え合うスポーツ選手みたいなものか…。そうした住み分けがうまくできないと、批評と批判、作品批評と人格攻撃などを取り違えることになる。

2015-05-06 15:22:22
Enrico Isamu Oyama @enrico_i_oyama

こうした取り違いが、日本の美術シーンにしばしば見られる批評アレルギーの根っこにあるのではないか。永瀬さんの図式に倣い、地域アート的共同体と批評の共同体を対置するなら、前者は切断と連帯が同一平面上で衝突する一元的共同性、後者はそれらが住み分けされる二元的共同性と言えるかもしれない。

2015-05-06 15:27:26
Enrico Isamu Oyama @enrico_i_oyama

換言すれば批評というのは、そのための独自の位相、現実の社交原理や利害関係から切り離された、それ自体で完結する批評のための空間というのを確保しなければ、とくに現代社会では成立が難しいかもしれない。ある種のネット空間、例えばツイッターも、うまくいく場合そうした空間の創出として機能する

2015-05-06 15:35:06
Enrico Isamu Oyama @enrico_i_oyama

と言いつつ、もちろんそれは、やはり何かしら現実にフィードバックされないと無意味…なので、いったん切り離したうえで、あとから綜合するというか、フィードバックさせるという技術が必要なのかもしれないな。議論の生産的なところ、自分にとって役立つ部分を、各々が事後的に咀嚼していくというか。

2015-05-06 15:37:54
Enrico Isamu Oyama @enrico_i_oyama

作品と人格は根本的にはやはり深層で結びつくはずなので、作品批評をいったんは独立したものとして受け止めることで感情的な反応は抑制しつつ、少しずつ飲み下すことで新しい人格の糧にしていくという、自己批判と新陳代謝のプロセス。一元的な共同性にはこうしたプロセスを駆動させる「距離」がない。

2015-05-06 15:43:47
Enrico Isamu Oyama @enrico_i_oyama

二層化された主体性はポストモダン的とも言われるけど、近代的な自己批判 というのも、そもそも主体が二層化されてないと起こり得ない。違いはどちらかというと、その二層が相互にどういう関係を結んでいるか。つまり単なる「解離」なのか、それとも新陳代謝のなかから「創発」を生み出せているのか。

2015-05-06 15:50:48
Enrico Isamu Oyama @enrico_i_oyama

つまり単に一元的な主体性/共同性でも、解離した二層構造(=二つの一元性が無関係に並んでいるに過ぎない)によるそれらでもなく、二層の創発のサイクルから新しい人格や作品が生み出され続けるプロセスとしてアート活動を捉えること。批評的切断がその一輪を、共同体的接続がもう一輪を担っている。

2015-05-06 15:57:21
Enrico Isamu Oyama @enrico_i_oyama

もう一輪が「共同体的接続」であるというのは、つまり無人島では批評も何もあったものではない。何かしらの社会関係に置かれて初めて批評的切断もあり得るという意味で、接続と切断のサイクルが大切ということ。要は、週に4日制作したら、後の3日は社交してればよいんです…。いや制作が5日かな…。

2015-05-06 16:01:02
Enrico Isamu Oyama @enrico_i_oyama

まあ僕は本当は、週7日制作していたい人間なんですけどね。

2015-05-06 16:06:25
Enrico Isamu Oyama @enrico_i_oyama

@seiichitsuchiya 転向です…というのは冗談ですが、永瀬さんが本で「90年代には"気付かれていなかった"けど、黙々と絵を描き続けていた一群の人たちがいた」と言っていて、それがネット以降は可視化されるようになったという話で、そう考えると今は活動しやすい世の中だなぁと。

2015-05-06 16:18:39

永瀬恭一(画家・まとめ主):
2008年より「組立」開始。http://kumitate.org/
共著に「土瀝青 場所が揺らす映画」http://www.amazon.co.jp/dp/4990583515/ref=cm_sw_r_tw_dp_n3Fuvb03D0F7Y

永瀬恭一(一人組立) @nagasek

大山エンリコさん @EnricoLetter から「20世紀末・日本の美術」についてコメント頂いています。今ちょっと手が離せないので、時間できたら応答しようかと。

2015-05-06 17:31:56
永瀬恭一(一人組立) @nagasek

.@EnricoLetter 大山様、「20世紀末・日本の美術」へのコメントありがとうございます。拙発言の偏りも含め、前向きに読んでいただけたようで、大変にうれしいです。更に僕の発言(主に後半の第二部の方ですね)の整理を的確に行って頂き、感謝します。

2015-05-06 22:51:47
永瀬恭一(一人組立) @nagasek

.@EnricoLetter 特に切断的批評が直ちに紛争状態から勝ち負けのシンプルなストーリーに転化してしまうのは、恐らく美術特有のことではなく、国内の言説のある「伝統」でもあるかもしれません。例えばかつての70年代文芸・美術批評にも、そういう光景があったように思います。

2015-05-06 22:52:55
永瀬恭一(一人組立) @nagasek

.@EnricoLetter そういった政治的紛争を忌諱したとことろに、広い・緩い意味での「地域アート」的な批評の排除を前提にしたコミュニティ、あるいはもっと広く「繋がりの目的化」のような事が起きているのは、大山さまのご発言の通りかと思います。

2015-05-06 22:53:25
永瀬恭一(一人組立) @nagasek

.@EnricoLetter これは以前大山様に御寄稿頂いた「組立-作品を登る-」で、ひきこもり研究家の上山和樹さんが論点にされていたことですが、作品なり作家なり、あるいは何らかの(美術に限らず)コミュニティへの批評的介入がただちに「紛争=政治」(勝ち負け)にならず、(続

2015-05-06 22:53:48
永瀬恭一(一人組立) @nagasek

.@EnricoLetter 承前)介入された方・した方双方に、ある契機とする方法が未だに上手くなされないのは何故か、と。これは大山様のお父様とそのお友達のような「成熟」の問題かもしれません。更に「市民」という概念をめぐって過去に宮台真司氏が語っていた事とも繋がるように思います。

2015-05-06 22:55:12
永瀬恭一(一人組立) @nagasek

.@EnricoLetter 僕としては、ここを精神的な成熟に賭けるだけではなく、ある種の方法として考えられないかな、と日頃考えています。現状で僕が考えているのは「文体」ということですね。単に言葉づかい、といってしまった方がわかりやすいのかもですが。

2015-05-06 22:55:39
永瀬恭一(一人組立) @nagasek

.@EnricoLetter 批評の言葉が、過剰に自己を防衛しつつ、その反動で悪い形でアカデミックになっていったり、ジャーナリスティックになったりする、その「文体」が事態を結果的に悪くしているようにも思えます。もうすこし「違う言葉づかい」はないものかなと、考えています。

2015-05-06 22:56:44
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