- freaky1201
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言う必要もないけど、議論が不毛な気がするので少しだけ。話題はリア充と非リアの関係。これは認識論的には、相手が存在しなければ同定できないという相互依存関係の枠組みでしかないということが最大の問題なのではないかと思います。同じ枠組み内での反照関係にすぎず、そこには全く創造性が皆無。
2010-12-23 20:14:39前者は後者に対する優劣での判断でしかないし、後者は前者に対するルサンチマンがそのほとんど(もちろん例外もあるでしょうが。優劣と怨念ではそこに創造的な営みを見出すことは不可能です。そして強烈なことに、これがメディヤやネットによって利益誘導された仮象の構造でしかないという点。
2010-12-23 20:16:12その意味では前者も後者も「自主的」「主体的」な選択と思いつつも、実はそれが「自主的」「主体的」という選択をしている勘違いによって収斂させられているにすぎないということです。
2010-12-23 20:17:49現実の世の中を見渡してみるとどうでしょうか。前者も後者も実はそれぞれマジョリティではなく、それぞれが両極の先鋭化した状態にすぎません。前者が共同体主義か強烈になった全体主義であるとすれば、後者は本来的な個人主義を逸脱した利己主義かもしれません。そして踊る土俵が実は同じということ。
2010-12-23 20:19:25そして最大多数は、(例えばクリスマスなんかは)「面倒くせえ」「金が飛ぶ」「家族サービスしなきゃ」的などちらでもありどちらでもないサイレントマジョリティでしょう。まあ、これもどちらがいいのは議論が分かれますが、演出された二項対立はどこまでいっても結局は、現実生活世界を無視した極論。
2010-12-23 20:21:23だから、相互依存関係でのものの見方、いわば観測する位置を変更しなければならないということ。それが可能になったとき、真に自由にリア充爆発できるのでしょうし、非リア爆発(でいいのかな表現は)できるのではないかと思う。結局は対他でしか自分を措定できないところには、創造性は存在しない。
2010-12-23 20:22:59これがこの問題の大きな根っこなのではないかと思った次第。であるとすれば、そうした認識論的依存関係をずらしてみることができる人間は、枠組み内の人間と同じ行為・行動をとろうとも、それはその当人にとっては違う一挙手一投足・意味合いになってくるのと思うだけれども・・・。ねぇ。
2010-12-23 20:24:25まあ、いずれにしても依存していることの方が楽なことはわかるのですが、これは自由の重責に堪えきれず、自ら自由を放擲して、「お上」に任せ、示されたレールの中だけ走っていくというのと同じだと思うのだけどねぇ。
2010-12-23 20:25:46決して勘違いしてほしくないのは(そしてそう断りをいれなきゃいけない知的文化にorzだけど)、圧倒的に前者に対して後者が不利な演出をされているのは承知ですが、その後者をむち打とうとしているわけでもありませんし、評論家風に解説しているわけでもありませんから。
2010-12-23 20:27:53信教の自由をキチンと理解している議員は殆どいないと思いますよ。たとい彼らが宗教者であったとしても、議員としての眼差しは、国家を超脱する宗教を管理したくなるものなんです。飯が食えなくなるし、自分たちこそアドミニストレータとしての神と自覚してますからw
2010-12-23 22:44:26