50歳の地図:伊能忠敬の第二の人生

扇さん(@ougi1515)が語った、一連の伊能忠敬の後半生に対するツイートが、自分的に面白かったのでまとめさせていただきました。
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@ougi1515

今日は伊能忠敬の命日だから伊能忠敬について語ってみるべ? 人生飽き飽きしている方は知っておいた方がいい伊能忠敬の生涯。 大体みなさんは伊能忠敬=日本地図の人ってイメージしかないんじゃないかな?いや、それでいいんだけど彼は日本地図を作りたくて作ったんじゃないのよね。

2015-05-17 22:55:06
@ougi1515

伊能忠敬は名主の子として1745年に生まれた。武士じゃなく商人の出。本名は神保三治郎。 1762年に伊能家へ養子に入りここで初めて伊能忠敬の名を貰う。忠敬は養子ということでとにかく頑張った。浅間山噴火から天明の飢饉なども経験しつつ伊能家の養子ということで商売を頑張った。50まで。

2015-05-17 23:01:24
@ougi1515

忠敬の趣味は空の星々を見上げて天体観測をすることだったという。 そこで50歳を迎え隠居の身となった忠敬は一大決心をする。 江戸に出て幕府天文方の高橋至時に弟子入りしたのである。後半生は好きな天文学を勉強しよう。忠敬はそう思った。時に忠敬50歳に対し高橋は31歳だった。

2015-05-17 23:04:56
@ougi1515

高橋は最初ただの老人の趣味程度だろうと思っていたが、寝る間も惜しんで勉強する忠敬の姿に感服したという。 高橋と忠敬の間には次第に師弟愛が生まれ、高橋は忠敬を「推歩先生」と呼んだ。推歩とは暦学のことで天体観測、測量によって暦が出来るのでまさに忠敬らしいあだ名といえる。

2015-05-17 23:09:26
@ougi1515

ある日高橋と忠敬は地球の外周は一体どれくらいなのだろうと思った。忠敬は自宅から天文方のある浅草まで距離を測って緯度の差を出せば外周が割り出せるのではと提案したが、高橋からはそれでは緯度の差が小さすぎて正確な値は出せない。例えば江戸から蝦夷地まで測ればよいのでは?と提案される。

2015-05-17 23:13:30
@ougi1515

そこで江戸から蝦夷地までの距離を測るために幕府に提出した建前が「日本地図作成」のためであった。 当時蝦夷地ではロシアのラスクマンが通商に訪れるなど北方警備を強化する必要があった。しかし蝦夷地は未開の地で正確な地図はほとんどなかった。そのため伊能忠敬の地図作成が認められたのだった。

2015-05-17 23:17:07
@ougi1515

1800年、伊能忠敬は測量のため自宅から蝦夷地へ向かった。忠敬55歳。高齢のため幕府からはあまり信用されてなく給料も少なかったという。 3年後、東日本を全て測量し終えた忠敬は早速、江戸から蝦夷地までの緯度の差を弾き出し日本の外周を割り出した。忠敬と師匠の高橋は大いに喜びあった

2015-05-17 23:24:20
@ougi1515

高橋が地球の外周の模範解答としたのは西洋の天文書のラランデ暦書でありこれを全部翻訳した結果、忠敬の測量から割り出した解答とほとんど一致したのである。 しかしこの本の翻訳で無理をしてしまったのか、師匠の高橋至時は1804年にこの世を去ります。忠敬は師匠の死後毎朝手を合わせたという。

2015-05-17 23:27:39
@ougi1515

さて東日本半分の地図は完成し将軍家斉も拝見した。あまりの正確さ、細かさに幕府の役人は息を飲んだという。そして伊能忠敬に西日本の地図の作成を命じたのであった。 趣味から始まった測量がいつしか国家事業になっていたのである。 1805年、伊能忠敬は西日本の測量に出発。60歳になっていた

2015-05-17 23:31:05
@ougi1515

しかし流石の老齢により測量はなかなか上手い具合にいかなくなる。それを支えたのが坂部貞兵衛だった。副隊長だった彼は率先して危険なところは忠敬に変わって測量した。しかし彼も九州で病気にかかり亡くなってしまう。 幕府の天文方の仲間達は忠敬にしきりに励ましの書状を送り忠敬を勇気つけている

2015-05-17 23:36:44
@ougi1515

1816年8月、伊能忠敬は全ての測量を終え地図の作成に取り掛かります。時に伊能忠敬71歳。北方探検で有名な間宮林蔵もより正確な北海道のデータを持ち帰り地図作成を敢行。さぁ後は東日本と西日本を合わせるだけだとなったが忠敬はショックを受けます。 海岸線が一致しなかったのだ。

2015-05-17 23:41:00
@ougi1515

東と西との海岸線のズレは地球が丸いためだった。 それに気がついた忠敬は一から計算し直して作業に没頭。しかしその最中の1816年、伊能忠敬はこの世を去ります。享年73 忠敬の弟子達は忠敬の死を隠して再計算を行った。 そして1821年、ついに大日本沿海輿地全図が完成、幕府に提出される

2015-05-17 23:45:05
@ougi1515

伊能忠敬が作り上げた日本地図である。そう幕府に報告した。忠敬の死が公表されたのはその二ヶ月後であった。 忠敬は死の直前、私がここまで来られたのは師匠の高橋至時先生のおかげであるから死後は先生の隣りで眠りたいと語っていた。その遺言通り、伊能忠敬の墓は高橋至時の墓と同じ寺にある。

2015-05-17 23:48:54
@ougi1515

大日本沿海輿地全図のその後。 日本が開国した後、イギリス船などが測量したいといって湾内に現れた。さっさと去ってほしい幕府はこの大日本沿海輿地全図の写しをイギリス船に渡した。 それを見たイギリス人は地図のあまりの正確さに驚いた。そして測量することなく日本を去ったという逸話がある。

2015-05-17 23:52:38
@ougi1515

その後明治維新になっても伊能忠敬の地図は地勢図に教科書に様々な形で使われ続けた。 忠敬の日本地図作成は日本が近代化の道を歩み始めた原点と言っても良いのではないだろうか? 私はそう思う。

2015-05-17 23:57:59
@ougi1515

とまぁ伊能忠敬のお話しはこんな感じ。 専門分野からはちょっとズレるのであんまり詳しくなかったと思う。 あ、ちなみに伊能忠敬ですが、日本地図作成の功績が認められ名字帯刀が許されます。つまり武士になったんですね。これは異例中の異例です

2015-05-18 00:04:50