- m_kakitaro
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本日、別方向から流れてまいりました2つの話題が、どうにも根を同じくするもののように思えましたので。一つは、動画を作れば作るほど、作ることそのものを批判される、というものでした。そしてもう一つは「ハイエナ発言」でございます。【続】
2010-12-25 01:26:24ハイエナなどと言われますと、正直申し上げて私などは大変耳が痛う御座います。なにせ、私が作って上げている動画といえば、およそハイエナ動画であるからです。 ……と申しますより、私自身はそれを「コバンザメ的」であるな、と考えておりましたが。
2010-12-25 01:30:19ですから、ある意味で「歌ってみた」等の動画について、理解・親近感を覚えます。それが、作り手から否定されている発言は、大変悲しい思いを持ちました。【続】
2010-12-25 01:35:29私の土俵で語らせていただければ、なぜ「書いてみる」のか、ということになります。それは、一にも二にも本家動画への愛にほかなりません。その動画(曲)が好きだから、物語を書くのです。それが根底です。【続】
2010-12-25 01:39:23歌ってみたも、本来の根っこは同じところにあるはずです。本家動画を広めたい。または、自分はこんなにも本家動画が好きなんだと主張したい気持ちが、必ずあるはずです。【続】
2010-12-25 01:44:48「歌ってみる」人は2種類に分けられます。『主張者』と『創作者(または表現者)』です。前者は、先ほど申し上げたとおり、ただ、その歌が好きだという、それだけで歌っている人。後者は、その歌を他者に向け“聴かせよう”とする人です。【続】
2010-12-25 01:51:46ゆえに『主張者』は自己の作品にクオリティを求めません。本家を聴けばそれで済むのですから。『表現者』はクオリティを求めます。自分が手を加えることで、本家と別アプローチの何かを、または本家以上の何かを世に問う行為だからです。【続】
2010-12-25 01:55:11そして、ここに軋轢が生まれます。視聴者は常に、『表現者』による『作品』を望むからです。ただ、好きだという主張にさえ、クオリティが求められるのです。当然です。見てつまらないものは見たくないですから。【続】
2010-12-25 01:58:34世の多くの場合がそうであるように、軋轢は、お互いの不理解から生まれます。『主張者』は自分にクオリティが求められていることを理解しないまま主張してしまう。『視聴者』はクオリティを求める筋ではない物にそれを求めてしまう。【続】
2010-12-25 02:02:08そして、視聴者は主張者をあしざまに罵るのです。つまらん、と。しかし、そうではない。面白い、つまらない、でなく、ただ「あぁ、自分と同じものが好きなのだな」と共感すればソレでいいのです。【続】
2010-12-25 02:04:59私も作り手の端くれとして、最低限、自分の物語にクオリティを求めはします。面白い、と言ってもらえれば、それはとてもエキサイティングな体験です。そこに自己主張がないかと言われれば否定はできません。ゆえに、「コバンザメ的」。【続】
2010-12-25 02:07:22物を作る、という行為は、それ自体がとても楽しい行為です。子供が積み木や塗り絵に夢中になることとよく似ている。そして、出来上がったものが評価されることは、とても素晴らしい。【続】
2010-12-25 02:13:55視聴者は、“ただ作りたい”から作ったものを安易に否定しないで欲しい。主張者は、評価される快感を知り、クオリティを上げる努力をすべきだ。 こうなってくると、非常に個人的な願望になってきますが。。。【続】
2010-12-25 02:18:25作ったもののクオリティが批判されるならば、まだいい。それを省みて、乗り越える人こそ、真の創作者たるのだから。願わくば、作ることそのものが否定されることがなきよう。そう望んでやみません。【続】
2010-12-25 02:26:34前説屋の語る「ものづくり」で御座いました。創作者としては端くれ末席に座す者の戯言なれば、論の稚拙さ・矛盾に眉をひそめられたか方も多御座いましょうが、どうぞ、悪しからず。【終】
2010-12-25 02:30:46