「高松次郎 制作の軌跡」展⇒ツィッター上ではおそろしく評判が良かったのですが実際はどうだったのでしょうか?
高松次郎展行ってきた。全館使った展示はとても見応えがありました。個人的にはコリン・ウィルソンとかフーコーとか 読んだことある本の表紙がいくつかあって、なるほど感があった。
2015-06-04 19:41:29昨日見てきた「高松次郎 制作の軌跡」展。TL上では見てきた人々の間で評判がおそろしく良かったのですが、実際に見てみると、確かにこれは展示としてスキがないなぁと感心しきり pic.twitter.com/7VOcE1fLQj
2015-06-04 21:11:03「影」「遠近法」「単体」……といったキーターム以外一切説明文が付されず、作品とドローイング/資料がほぼ編年体式に並べられているだけなのに、高松の制作がどのような内的要請に従って変化していったかが分かるようになっていたわけで、その教育的配慮たるやといったところ
2015-06-04 21:11:35高松は1960年代に――赤瀬川原平、中西夏之と結成した「ハイレッド・センター」と並行して――人や物の影を描いた平面作品を集中的に手がけていましたが、影を描くということは必然的に対象と見る者=描く者との関係性を問い直すことにほかならず、
2015-06-04 21:12:29その問い直しの作業はこれまた必然的に「見る」こと自体を規定するフレームワークとしての遠近法を問い直すことへと発展するだろう。それは60年代末における《遠近法》シリーズに結実することになる。そしてかかる遠近法的な認識への自己言及的な作業は、
2015-06-04 21:13:20見ることの原理自体を事物化させること、事物=ものごととそのイメージ(言語とか)との関係性を“ものごとの側に引きつける形で”作品の中で表現することへと向かうことになり、その探求は70年代前半における《単体》や《複合体》シリーズに結実することになる。そして……
2015-06-04 21:13:48――といった具合に、作品やドローイングにおいて如実に現われている諸要素を数珠つなぎのようにしていくことによって、高松の制作が外的な要因以上にその内的論理(というか内的論理矛盾)に駆動されて展開していったことが、展示物を追っていくだけで理解できるようになっていたわけですね。
2015-06-04 21:14:27そういった流れの上に、普段は常設展が行なわれているフロアを全部使った絵画作品コーナーがあったわけで、これは個人的にポイント高。高松は80年代以降98年に亡くなるまで《形(/原始)》と題された絵画を多く描くようになりますが、
2015-06-04 21:15:0460年代に反芸術の旗手的存在だった高松がベタな絵画作品に「回帰」したように見えたこともあってか、(もともとアンチ反芸術の評論活動を展開していた藤枝晃雄氏を筆頭に)批判と無理解にさらされ続けることになる。
2015-06-04 21:15:44当方も《影》や《遠近法》から高松の作品を知ったクチなので、常設展などで晩年の絵画に接したときは ど う し て こ う な っ た と思うことしきりだったわけですが、今回のような周到な配慮の上にこれらの絵画に接すると、かかる「回帰」もまた
2015-06-04 21:16:31それなりに理にかなったものであったことが思弁的に感受されたわけで、最初に《形/原始》(画像参照)に接した折のようななるほどさっぱりわからん感が個人的にはだいぶ軽減されたのでした。7月5日まで pic.twitter.com/cHI8WnlE0s
2015-06-04 21:17:19――以下余談。ところで当方が見に行った折には小学生の団体が来てまして、ワークシート片手に模写に勤しんでましたが、《影》や《遠近法》のような分かりやすい(?)見た目の作品に集まるかと思いきや、小学生たちが群がっていたのは《単体》だったわけで、ずいぶん渋いなぁと思うことしきり
2015-06-04 21:18:06