『明治の父』の江戸幕臣、小栗上野介忠順

幕末に新時代の日本のために奔走し、悲運の死を遂げるも後に明治政府側の人間からも高い評価を受けた幕臣、小栗忠順について扇さん(ougi1515)が語りました
4
@ougi1515

日露戦争の雌雄を決した日本海海戦 戦艦三笠、朝日を中心とした連合艦隊はロシアのバルチック艦隊を撃破。連合艦隊司令長官東郷平八郎は海戦勝利後こう語った。 「小栗上野介が横須賀造船所を作ってくれていたことがどれほど役に立ったか…」 連合艦隊主力艦は横須賀造船所で万全な整備を受けていた

2015-06-10 22:30:56
@ougi1515

横須賀造船所。これを建設したのが江戸幕府最後の勘定奉行である小栗上野介忠順である。 小栗は1827年、旗本の子に生まれた。幼少期から厳しいしきたりの下育てられ、若干17歳で登城するなど文武の才能に秀でていた。 サッパリとした性格で自分の意見を率直に述べる人物だったといわれている。

2015-06-10 22:43:23
@ougi1515

1853年。黒船来航。アメリカの圧倒的な海軍力を見た小栗は軍艦が日本の海防に必須でありそのために造船所を作らなくてはならないと思うようになった。 1860年、遣米使節団の一員としてアメリカに渡る。小栗は米艦ポーハタン号に乗船するがこの時、ポーハタン号に随行したのが咸臨丸だった。

2015-06-10 22:49:22
@ougi1515

小栗は黒船来航の折、外国人と交渉したこともありテンパる他の使節団員を尻目に終始冷静だった。 使節団の団長は新見正興だったが小栗の落ち着きぶりから小栗が団長だと勘違いされたほどである。 使節団は改めてアメリカの工業力に圧倒される。立ち並ぶ高層ビル、軍艦…これは一体どう作っているのか

2015-06-10 22:55:46
@ougi1515

使節団はワシントンの海軍工廠を見学する。そこで小栗は一本のネジに出会う。 それは機械により大量生産されたネジの一本だった。日本にも当時ネジはあったが手製で時間もかかり大きさもバラバラだった。 小栗は大量に生産されるネジを見て、この一本一本が国の工業力を支えているのだと確信する。

2015-06-10 23:01:59
@ougi1515

帰国後小栗は外国奉行に就任。 渡米経験から海防に対する様々な主張をするも上司と対立し一年足らずで辞めてしまう。 1862年に勘定奉行に就任。 当時幕府は海防のために艦船44隻を購入しておりこれを我が国で生産出来れば出費も減ると考える。それが後の横須賀造船所建設に繋がっていく。

2015-06-10 23:07:29
@ougi1515

最初はオランダに交渉したがオランダは日本は造船所は作らずオランダから軍艦を買い続ければいいとか言い出したため断念。フランス援助に切り替える。 実は横須賀造船所建設は他の幕閣から反対されていたが、小栗の迅速な対応、行動によってうやむやに終わったとされている。

2015-06-10 23:13:01
@ougi1515

小栗上野介とは通称名であり官職というわけではない。榎本和泉守武揚と同じである。 上野介は上野国からとった。造船所建設にあたって鉄が大量に必要となったのだが上野国の鉄が良質で大量に取れた。小栗はここの鉄を使うと決めた。ちなみにここを検分した武田斐三郎は五稜郭建設にも携わっている。

2015-06-10 23:16:41
@ougi1515

上野介は吉良上野介と同じ名前で不吉だから止めておけという意見もあったが小栗は拒否した。その予言は数年後不幸にも当たってしまう。 1865年に横須賀造船所の建設開始。フランスの協力もあり迅速に建設は進んでいった。 これで日本は海軍立国の一歩を踏み出せた。小栗はそう感じていただろう

2015-06-10 23:20:46
@ougi1515

陸軍奉行並に就任した小栗は幕府軍の様式化を推進し、大量の西洋武器を輸入。フランスからブリュネやカズヌーブなど軍事顧問団も派遣させている。 このフランスの援助をきっかけに初めてフランス語学校を設立したのも小栗であった。 また関税率改正にも着手し、商社設立にも尽力している。

2015-06-10 23:25:20
@ougi1515

しかしこういった小栗の努力も虚しく1867年に大政奉還。江戸幕府は滅びる 翌年には鳥羽伏見の戦いが勃発、旧幕府軍は敗退。徳川は朝敵となってしまう。 小栗は徹底抗戦を主張。 開陽丸を中心とした幕府艦隊で箱根付近の官軍を艦砲射撃すれば殲滅できる案を徳川慶喜に提出するが慶喜はこれを拒否

2015-06-10 23:29:19
@ougi1515

勝海舟ら幕末三舟の主張により慶喜の心中はすでに恭順に固まっていた。 後年、小栗の立案を知った日本陸軍の父、大村益次郎は 「小栗の案が実行されていれば我々の首はなかっただろう」 と恐れおののいたという。 徹底抗戦を主張した小栗は幕府の要職から罷免され江戸城を後にする。

2015-06-10 23:42:26
@ougi1515

小栗が向かった場所は上野国だった。 ここで小栗は世を忍んで一家で暮らす。記録によると農作業に従事したり塾を開くなど物静かな日常だったという。 しかし一度徹底抗戦を主張した小栗を官軍は許さなかった。四月に小栗は捕らわれ取調もないまま2日後に斬首された。享年42 家族は会津へ亡命した

2015-06-10 23:45:06
@ougi1515

小栗の死から3年後の1871年、横須賀造船所は完成。 横須賀造船所は後に横須賀海軍工廠と名を変え様々な名艦を生み出した。 日本初の国産軍艦:清輝 日本初の国産戦艦:薩摩… 戦艦陸奥、戦艦山城、重巡洋艦妙高、高雄、鈴谷、軽巡洋艦天龍、能代、航空母艦天城、飛龍、翔鶴、瑞鳳、翔鳳…

2015-06-10 23:47:53
@ougi1515

小栗は死後、敵方であった明治維新功労者から様々な高評価を受けている。 大隈重信曰く「明治政府の近代化政策は小栗上野介の模倣に過ぎない」 特に東郷平八郎からは格別の評価を得ている。 東郷は日本海海戦後、小栗の孫らに対し日本海海戦に勝利できたのは小栗氏のお陰であると礼を述べている。

2015-06-10 23:52:50
@ougi1515

これと同時に東郷は小栗上野介は仁義礼智信の人物であったと評し、孫達にその仁義礼智信と自ら書いた書額を渡している。 小栗最期の地、群馬県高崎市。ここに小栗の菩提寺、東善寺がある。ここに東郷の書と共に小栗が最期まで持っていたとされるアメリカから持ち帰ったネジが保管されている。

2015-06-10 23:57:44
@ougi1515

江戸から明治へ、歴史が大きく移り変わる時代に登場し、日本の未来を一本のネジに託した小栗上野介忠順。 歴史小説家の司馬遼太郎は小栗のことを「明治の父」と評した。 彼の功績は明治、大正、昭和を経て、平成の世も造船大国日本(2015年1月現在、船舶受注量世界一)を支えている。

2015-06-11 00:07:27