第二幕「彼女へ贈る歌」 その2
- akitsutenryu
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大正十年、この頃の銀座はおそらく繁華街として最も輝いていた時かもしれない。 今は夜の八時だが、明かりの灯った店が多く見受けられる。 往来にはタクシーなどの自動車が行き交い、昼とはまた違った雰囲気を醸し出している。
2015-06-13 22:57:12「夜なのに、結構賑わっているでありますね」 「夜の街ってのはこんなもんだ。 あんまり怯えんな」 「怯えてなどいないであります」 「どうだかねぇ。 震えてるぜ?」 「……今宵の天龍殿はあまり機嫌がよろしくないでありますね」 「当たり前だ。 こんな恥ずかしい服着せやがって……」
2015-06-13 23:08:10あきの服装は黒の詰襟にスカート、そして学生帽によく似た帽子。 いつも通りの姿である。 「似合ってるでありますよ、天龍殿」 「なんでまたこんな格好を……」 「あんな破廉恥な格好で見知った店には連れていけないので」 「ただのシャツにスカートだろ。 後で覚えとけよ……」
2015-06-13 23:12:47天龍はと言うと、いつもの奇抜そうな格好ではなく、袴に着物の、いわゆる女学生風の姿である。 慣れていないのか、先ほどからしょっちゅう草履で裾を踏んでは転びかけていた。
2015-06-13 23:15:11「天龍殿は背が高いので合う服があるかは分かりませんでしたが」 「無い方が俺にとっちゃ都合は良かったけどな」 「いやぁ、ちょうど良く以前勤めていた女中さんの着物があって良かったであります」 「良くねぇよ! くっそぉ、恥ずかしい……」 「かんざしもお似合いでありますよ」
2015-06-13 23:18:55「……ところで女中さんってなんだ?」 まだ赤面冷めやらぬ天龍は、あきの言った言葉の真相を尋ねた。 「はて、なんのことやら」 「ごまかすな。 今回の招待状といい、隠し事はよくねぇ」 「それは天龍殿も同じでありますよ」
2015-06-13 23:24:58「……俺にだって、言いたくねぇことはある」 「ではお互い様でありますね。 詮索はやめておきましょう」 「……おう」 そこで会話は途切れ、二人は目的のカフェまで歩いて行くのだった。
2015-06-13 23:29:15さて、ここで"カフェ"の説明をしておこう。 大正時代、カフェは主に二種類に分けられていた。 単純にコーヒーや菓子を楽しむ社交場として。 酒や女給を楽しむ、いわゆるキャバレーのような場として。
2015-06-14 00:43:27この銀座で長く続くカフェリリィズは前者にあたる店だが、昨今の帝都におけるカフェの競争率の激化により、一年ほど前より夜の営業、歌を聴かせるナイトクラブのようなものも行っていた。 そして、今日はちょうどその夜間営業を始めて一周年の日。 あきはその記念パーティーに呼ばれたのだ。
2015-06-14 00:47:00「さ、着いたでありますよ」 10分ほど歩いた後、二人は目的のカフェに到着した。 カフェリリィズ。 今宵、ある夜会が開かれる店である。
2015-06-13 23:37:54カフェの中は薄明かりが灯る、少し暗い空間となっていた。 人もすでに集まっており、どの席もカウンターも満席となっている。 店内隅のピアノの周りには立ち見客も見える。
2015-06-13 23:54:04さてどうしたものかと店の入口で立ち止まっていると、灰色のベストを着た男性が声をかけてきた。 「やぁ龍城のお嬢様。 よくいらっしゃってくれました」 男性はこのカフェの店主である。 帽子越しにあきの顔を見たのか、それとも立ち振る舞いから察したのか、しかし丁寧な口調だった。
2015-06-14 00:03:56「ああ、お久しぶりで、あります……」 「誰かと思いましたが、雰囲気ですぐに分かりましたよ。 よくお越しになってくださいました……ところで、そちらは?」 男性は暗がりでも分かる笑顔であきに話していたが、そばにいた天龍を見て訝しげな目線を送った。
2015-06-14 00:17:57「ああ、その……」 「失礼致しました。 私、お龍と申すものです。 お父様が欠席とのことでしたので、代わりにあきお嬢様のお付きとして参りました」 「おお、そういうことでしたか。 では、どうぞお楽しみくださいませ」
2015-06-14 00:29:21人が変わったかのような天龍にあきは面食らったが、店主はそれで納得したようで、ひとまずその場を後にした。 天龍は狼狽した様子のあきにこう切り出した。
2015-06-14 00:30:40「……これでいいか、あきつ丸」 「え、その、天龍殿? 今のはいったい……」 「お前の家の事情は知らねぇが、こうしておけばお前も俺もたぶん怪しまれないだろ? つうわけで、合わせておいてやる」 「わ、分かったであります」 「まぁ、あんまり慣れてねぇ喋り方だから後は頼む」
2015-06-14 00:33:58「……ありがとうございます」 「礼とか言うな。 さ、始まる前によく聞こえる場所に移ろうぜ」 「ええ、そうでありますね」 二人は人の間を抜けるように、店の奥へと進んでいくのだった。
2015-06-14 00:39:51「ちょいと邪魔するぜ」 「通して欲しいであります」 あきと天龍は煙草をふかしたり談笑に興じたりする人々の間を抜け、前の方へと向かっていた。 「ジャズってよく知らねぇが、興味はあるんだよな」 「自分でもあります。 楽しみでありますね」 二人も少し心が躍っているようだ。
2015-06-14 01:01:19「よいしょ、っと……よし、いい場所が取れたであります」 「へっへ、最前列だな」 通る途中に怪訝そうな顔をした客もいたが、すぐに話に戻ったりしていた。 コーヒーと話の肴に歌を聴く人物がどうにも多いようである。
2015-06-14 01:09:09「何か頼むでありますか」 「この店、何が美味いんだ?」 「コーヒーでありますね」 「なんだそれだけか……もっと腹に溜まるもんは無いのか」 「天龍殿は相変わらずでありますなぁ。……おや」 「どうした?」 「天龍殿、あの人は……」 「……あいつも招待されてたのか」
2015-06-14 01:23:57