山本七平botまとめ/【変換期にみる日本人の柔軟性/ベンチャーの精神①】明治における企業はすべてベンチャービジネスであった

山本七平『1990年代の日本』/変換期にみる日本人の柔軟性/ベンチャーの精神/明治のベンチャービジネス/102頁以降より抜粋引用。
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山本七平bot @yamamoto7hei

①【変換期にみる日本人の柔軟性/ベンチャーの精神/明治のベンチャービジネス】日本人は、きわめて好奇心の強い民族である。 これを培ったものは、第一章で記したように辺境文化であり、常に強い好奇心をもって中心文化の方を眺めていた伝統に起因すると思われる。<『1990年代の日本』

2015-06-08 13:38:52
山本七平bot @yamamoto7hei

②そして好奇心の強いことは、ベンチャーに適応した性格であることを意味している。 これがなければ、僅か百年余の間にGNP世界第二位の経済的達成を示す経済大国にはなれなかったであろう。

2015-06-08 14:09:07
山本七平bot @yamamoto7hei

③試みに、日本近代史の出発時点の明治元年から十年まで、すなわち僅か十年間をとってみても、驚くほど多くのベンチャービジネスが設立されている。 たとえば、明治四年には、石油製法発明と、その製法による石油の製造・販売会社の設立のニュースが、新聞に報道されている。

2015-06-08 14:38:51
山本七平bot @yamamoto7hei

④当時、石油はランプが普及し出し、土法による採掘も始まっていたが、精製が充分でなかったためか黒煙を生じて使いものにならず、また、しばしば爆発事故が起きた。 事故を防止するには油質の純美なものが必要であるが、このニュースはその要求に応えうる石油の製造に成功したというものである。

2015-06-08 15:09:07
山本七平bot @yamamoto7hei

⑤明治四年といえば、同元年の会津の白虎隊士の全員割腹自殺が行われた年から数えて僅か三年しか経っていない。 しかし、欧米先進国に追いつく懸命な努力が早くも必死に行われていたのである。

2015-06-08 15:38:51
山本七平bot @yamamoto7hei

⑥このことはもちろん、明治になって日本人が突然変異を起し、急にベンチャーな精神を獲得したということではない。 歴史には奇蹟や手品はないのであって、一見そう見えるのは認識不足か、誤れる歴史観ないしは先入観のゆえである。

2015-06-08 16:09:11
山本七平bot @yamamoto7hei

⑦「手品は、種を知らないものには不思議だが、種を知っている者には、そうならなければ不思議である」 という言葉は、明治の日本近代化成功の奇蹟についても言えるのである。

2015-06-08 16:38:51
山本七平bot @yamamoto7hei

⑧たとえばある外国人の書いた『渋沢栄一』を読むと、まるで、鎖国下の無知蒙昧な百姓の子が、運命のいたずらで徳川昭武の随員としてパリに来て、そこで奇蹟的に開眼したように見える。

2015-06-08 17:09:03
山本七平bot @yamamoto7hei

⑨欧米人は本能的に欧米絶対、後進国は全て欧米の模倣者、その中で日本人は最も巧みな模倣者という西欧中心の歴史観に基づく先入観から逃れられない。 と同時に、彼らは今まで記してきたような日本の伝統に無知であり、徳川末期の地方の実情などは全く知らないのである。 そこで奇蹟と見る。

2015-06-08 17:38:51
山本七平bot @yamamoto7hei

⑩だが奇蹟などはありはしない。 確かに徳川時代には徳川時代という限定はあった。 だが何らかの限定のない世界はなく、現代でも、無限定というわけではない。 従って探究すべきはそれぞれの限定の中で、どれだけベンチャーな精神を発揮していたかということなのである。

2015-06-08 18:09:15
山本七平bot @yamamoto7hei

⑪この点では、徳川の末期に様々な例があるが…次に一例だけを紹介しておこう。 【二、三十年下士の内職なるもの漸く繁盛を致し、最前は唯杉檜の指物膳物などを製し、元結の紙糸を捻る等に過ぎざりしもの、次第に其仕事の種類を増し、下駄傘を作る者あり、提灯を張る者あり、】

2015-06-08 18:38:51
山本七平bot @yamamoto7hei

⑫【或は白木の指物細工に漆を塗て其品位を増す者あり、或は戸障子等を作て本職と巧拙を争ふ者あり、しかしのみならず近年に至ては手業の他に商売を兼ね、船を造り荷物を仕入れて大阪に渡海せしむる者あり、或は自ら其船に乗る者あり。】

2015-06-08 19:09:01
山本七平bot @yamamoto7hei

⑬これは福沢諭吉の『旧藩情』の一節だが、この記述は「士農工商」のタテマエ論しか知らぬ者が読めば、少々驚きであろう。

2015-06-08 19:38:51
山本七平bot @yamamoto7hei

⑭もっとも下級武士の内職はよく知られているが、それが発展して 「船を造り荷物を仕入れて大阪に渡海せしむる者あり、或は自ら其船に乗る者あり」 となると、これは少々、下級武士の内職とは言いかねる本職である。

2015-06-08 20:09:07
山本七平bot @yamamoto7hei

①このことは、前記の伝統からさまざまに解釈できるが、ベンチャーという問題に限れば、下級武士が一種の「販売組合」を造り、江戸から大阪へ商品を船で運んで商売するということは、立派なベンチャービジネスといわねばならない。<『1990年代の日本』

2015-06-08 20:38:52
山本七平bot @yamamoto7hei

②この人びとが、明治になった途端、堂々とそれを本職とし、さらに新しい冒険へと向っても不思議ではない。 このように、旺盛な好奇心、ベンチャーな精神、進取の気象に富んでいたからこそ、短時日のうちに、日本は近代化を達成することができたといえる。

2015-06-08 21:09:05
山本七平bot @yamamoto7hei

③だが、それだけでは充分ではない。 新技術への一般的危惧は確かにあったし、現に、ランプの爆発が多く、この防止のため、東京府令が出ている。 この際、重要なことは、当時の企業家が、新しいものの普及に際して、一般の信頼を得るため、極めて巧妙・細心な手段をとっていることである。

2015-06-08 21:38:52
山本七平bot @yamamoto7hei

④例えばエレキ(電燈)の普及の場合がそうであった。 当時の日本人にはランプは理解できてもエレキは何だか得体の知れない物だという印象がもたれていた。 これは当然である。 そこで東京電燈の渋沢栄一らは最初、兵営、次いで皇居周辺、そして、紡績工場という順序でエレキを普及させている。

2015-06-08 22:09:14
山本七平bot @yamamoto7hei

⑤いわば聖なる場所、権威のある所から、つぎに生産性向上を必要とする所へと段階的に普及を行っているのである。 新しいものには、当然のことながら警戒心や抵抗が伴う。 これを漸進的に解消しながら、普及していっているのである。

2015-06-08 22:38:52
山本七平bot @yamamoto7hei

⑥当時、すでにベンチャービジネスは、社会的共感(コンセンサス)を獲得しながら、普及をはかるという「漸次的社会工学」(ピースミール・ソーシャル・エンジニアリング)の方法を身につけていた ということができよう。

2015-06-08 23:09:03
山本七平bot @yamamoto7hei

⑦そして、ある段階まで普及していけば、あとは加速度がついて爆発的に普及していくことを見通していたのである。 明治における企業はすべてベンチャービジネスであったと言って過言ではない。

2015-06-08 23:38:53
山本七平bot @yamamoto7hei

⑧それを可能にしたのは、前記のような資質、それまでの伝統等とさまざまな要素があるが、ここでまず、世界史におけるベンチャービジネスを短く振り返り、その特質を探ってみよう。

2015-06-09 08:09:17