山本七平botまとめ/【変革期にみる日本人の柔軟性/科学技術の導入③】無宗教的・擬似科学的・近思録的世界観の持ち主、日本人

山本七平『1990年代の日本』/変換期にみる日本人の柔軟性/科学技術の導入/科学・技術の導入/技術に対する柔軟性/138頁以降より抜粋引用。
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山本七平bot @yamamoto7hei

①【科学・技術の導入】問題は、加藤弘之のような「明治的知識人」もまた彼が蔑視した「迷信深き」宗教的民衆も、なぜ、共にこのように科学・技術の導入に抵抗感がなかったのかということである。<『1990年代の日本』

2015-06-13 16:38:58
山本七平bot @yamamoto7hei

②この状態が明治になって「突然変異的」に起ったとは考えにくく、その基礎は徳川時代にできていたと考うべきである。 ここでもう少し加藤弘之の所説を追い、彼の科学論の背後を探ってみよう。 それは恐らく民衆の、口せざる「技術論」の背後にあったものだからである。 彼は次のように記す。

2015-06-13 17:08:56
山本七平bot @yamamoto7hei

③【欧米では中古キリスト教の勢力が非常に盛になって全く人心を東縛した所から、迷信は数十百年数十代の遺伝によってますます牢固となったのであるから、哲学者・科学者の如き知識の優った者さえも、殆どその遺伝を脱することが出来ないのである。】

2015-06-13 17:38:58
山本七平bot @yamamoto7hei

④【わが国の如きも、古来仏教の勢力が盛んであったから、これまたその遺伝によって迷信が漸漸牢固となったけれども、徳川幕府となってからは儒教が最も勢力を得て中流以上の社会は専ら儒教で支配されるようになった為に…中流以上の迷信は大に減じたように思われる。】

2015-06-13 18:09:03
山本七平bot @yamamoto7hei

⑤【儒教は仏教やキリスト教の如き宗教とは違って元来迷信が甚だ少ない。 唐の結果である奈良時代、平安時代・鎌倉時代・足利時代の中流以上と徳川時代の中流以上とを比較してみると、その迷信の程度は余程違うように思われるが、これは全く儒教のおかげであると思う。】

2015-06-13 18:39:01
山本七平bot @yamamoto7hei

⑥【けれども今日多少学問のある人にもなお、迷信が随分残っているのは、甚だ歎息すべきことである。】 加藤弘之にとって「宗教」と「迷信」は同義語だから、以上の引用の「迷信」を「宗教」と置きかえてもよい。

2015-06-13 19:08:56
山本七平bot @yamamoto7hei

⑦そして日本人が科学的であり、科学・技術に何の拒否反応も示さないのは、徳川時代に日本に儒教が浸透して「迷信=宗教」を追い払ったからであるという。 では一体、果たして儒教は、科学を受容する基礎となり得るのであろうか。 基本的にはなり得ないが擬似的にはなり得る。

2015-06-13 19:38:56
山本七平bot @yamamoto7hei

⑧それは聖書…の冒頭と…『近思録』の冒頭を対比すれば誰にでもある程度、この事が理解できるであろう。 次に『近思録』…「道体篇」の冒頭を引用しよう。 【…引用略…朱子的な考え方によれば、宇宙には「気」…が充満し、この集合によって万物が生じ、離散によって消滅して元の「気」に戻る】

2015-06-13 20:09:00
山本七平bot @yamamoto7hei

⑨この「気」―これを一応「物質」と理解すると、これを集散離合さすものが「理」で、これは全ての個物に内在する。

2015-06-13 20:38:59
山本七平bot @yamamoto7hei

⑩この「理」をエネルギーと解すれば、そのエネルギーは個物に内在しつつ同時に統一的に宇宙を構成している基本であり…同時に「気」には「陰・陽」があり、これらの作用により「物質」(五行=木火土金水)が形成され、人間もこれによってつくられている。

2015-06-13 21:09:00
山本七平bot @yamamoto7hei

①【技術に対する柔軟性】要約すればこのような考え方で、朱子は基本的には無神論者であって、この考え方は一見まことに「科学的」である。 だが以上のような説明は湯浅幸孫氏の次の批評通りになるであろう。<『1990年代の日本』

2015-06-13 21:38:57
山本七平bot @yamamoto7hei

②【中国哲学を、西欧哲学のあれこれの範疇・概念・図式等にあてはめ、恰好よくしかし誤った解釈をすることは、ミニスカートや長髪と同じく、われわれを誘惑する、美しい或いは醜悪な現代の流行のひとつである】と。

2015-06-13 22:08:57
山本七平bot @yamamoto7hei

③確かに「朱子学的思惟は今だ神話的思考を脱却していない」のだが、しかし一見まことに「科学的」とは言え、その意味では擬似科学といってよいであろう。 『近思録』は徳川時代にはインテリの必読書であった。 明治の元勲…の若い頃の読書を調べると必ず『近思録』があるといってよい。

2015-06-13 22:39:01
山本七平bot @yamamoto7hei

④従ってこれに西欧諸科学の概念をあてはめ、それを加藤弘之のように「科学」と信ずれば、儒教があったがゆえに日本人は科学的になり、迷信から解放されたと考えて不思議ではない。

2015-06-13 23:08:57
山本七平bot @yamamoto7hei

⑤と同時に、この『近思録』的な創造論と全く違うキリスト教の創造論は彼らにとって、否定されるべき迷信であって当然であった。 明治の反キリスト教文書、たとえば藤嶋了穏『耶蘇教の無道理』(明治14年発行)なども、その批判は専ら創世記に向けられている。

2015-06-13 23:38:58
山本七平bot @yamamoto7hei

⑥この伝統からすれば日本人に「唯物論・無神論」への拒否反応が少しもなくて不思議ではない。 明治以降の歴史の中でイスラム世界のように無神論そのものを異端として扱った例はない。 「私は無宗教だ、無神論者だ」といっても、それなるが故に社会から疎外される事は日本ではあり得ないであろう。

2015-06-14 08:09:00
山本七平bot @yamamoto7hei

⑦ただ唯物論という言葉は…政治的イデオロギーと関係あるものとされたり、また我利我利亡者の代名詞のように使われる事によって、ある程度の警戒をもたれた時代もあったが、これも誤解と誤用に基づいている。 日本人が警戒を示すのは何らかの宗教の熱烈の信者であっても、決して無神論者ではない。

2015-06-14 08:39:00
山本七平bot @yamamoto7hei

⑧これらは徳川時代に朱子学を叩き込まれたことに起因するであろうから、 日本人の知識階級が「無神論的・無宗教的」であるのは儒教による という加藤弘之の考え方は必ずしも無根拠とはいえない。 とはいえ、それがそのまま科学・技術の導入に役立つというのではあるまい。

2015-06-14 09:09:12
山本七平bot @yamamoto7hei

⑨ただ徳川時代に日本人は『近思録』から「近思録的発想」へと進み一種の進化論や機械論的宇宙論を生み出していた。そうなれば「神学と科学技術」等という問題は初めから生じなくて当然であろうし、明治が聖書の天地創造説に反撥し、同時に進化論は何の反撥も感じずに受容しても少しも不思議ではない。

2015-06-14 09:38:58
山本七平bot @yamamoto7hei

⑩では徳川時代の日本人はどのような「進化論」と「機械論的宇宙論」を生み出したのであろうか。 まず、進化論の方から記すことにしよう。 次に記すのは鎌田柳泓の『心学奥の桟』(1820年)の一節である。 (…引用略…) 現代の進化論からみれば素朴とも幼稚ともいえるであろう。

2015-06-14 10:08:58
山本七平bot @yamamoto7hei

⑪だがそれはたいして重要なことではない。 西欧キリスト教世界が長い問保持し、サザン・パプテストなどが今なお強固に保持する創造説――いわば人も生物も今の形のように天地創造のときに神にょり創造されたとする説――が、ここには全くないということである。

2015-06-14 10:39:00
山本七平bot @yamamoto7hei

⑫柳泓にとっては、「人間と猿は先祖を同じくする」は当然のことであったろう。 何しろすべては「一虚の中より」出て変化して、天地・日月・水火・禽獣・草木と進んで、「人類まで変化し来る者なるべし」なのである。 この考え方は、前記の『近思録』から来ていることは明らかである。

2015-06-14 11:08:56
山本七平bot @yamamoto7hei

⑬朱子的な思惟によれば、この宇宙には「気」というガス状の物質が充満しており、これから柳泓は 「大虚〈おおぞら〉は一気にして天地の間に有て最くわしき(稀薄)者なり。俗人大虚〈おおぞら〉を以て無物なりと思へるは皆深く考へざるゆへなり」 としているからである。

2015-06-14 11:38:59
山本七平bot @yamamoto7hei

⑭さらに朱子は、この「気」が集まれば万物が形体を成し、散ずれば消滅してまた元の「気」に帰る。 つまり「気」の集散離合によって万物が生成し消滅すると考えていた。 そして「気」は陰陽(プラスとマイナスの要素)があり「理」即ちエネルギーがこれに作用して「五行」即ち諸物質をつくる。

2015-06-14 12:09:13
山本七平bot @yamamoto7hei

⑮そしてこの作用が逆になれば諸物質は消滅してもとの「気」に帰るわけである。 柳泓も明らかにそう考えており、次のように述べている。 (…引用略…) こう考えればまさに朱子学的唯心論であり、進化論に進んでも不思議ではない。

2015-06-14 12:38:59