10周年のSPコンテンツ!
1
山本七平bot @yamamoto7hei
①【「不易」と「流行」/不倒翁、渋沢栄一】前項で渋沢栄一に少し触れたが、幕末から明治・大正・昭和と生きたこの「不倒翁」の生き方は、将来の日本を考える場合も、また企業の未来を占う場合にも、さまざまな示唆を与えてくれる。<『1990年代の日本』
山本七平bot @yamamoto7hei
②明治の多くの人間は、福沢諭吉の言葉を借りれば「一身にして二世を経る」ような大変化を生き抜いたわけである。 その変化は「戦前・戦後」を経過するように生やさしい変化ではない。 多くの者は、この大変化の前に挫折した。 更に明治・大正・昭和への変化もまた決して少ないものではない。
山本七平bot @yamamoto7hei
③この間を不倒翁として生き抜くことは、到底、凡人にできるわざではない。 渋沢秀雄氏がその父栄一の思い出を記した『渋沢栄一』の末尾で、芭蕉の「不易」と「流行」という言葉を引用されている。
山本七平bot @yamamoto7hei
④「『不易』とは時代がどう変っても一貫している詩の心」 「『流行』とはその時々の時代感覚」 この「二つが両立すれば立派な俳句だ」とされ、渋沢栄一の生涯に「不易と流行」を見ておられる。 まず「流行」の方から見ていけば、渋沢栄一とは驚くべき「流行人間」…「情報敏感人間」なのである。
山本七平bot @yamamoto7hei
⑤徳川時代にすでに「最も付加価値の高い商品は情報である」ことが、渋沢のみならず一部の商人には常識であることは、前項で触れた。 従ってこの「流行」を、広く情報を入手して、すばやくそれに対応することと考えれば、渋沢の生涯はまさに「流行人間」である。
山本七平bot @yamamoto7hei
⑥これは見方によっては無節操人間のようにも見える。 まず彼のもつ情報は武州血洗島の田舎で、その周囲から得た直接的な情報の他は、従兄の尾高新五郎が江戸に遊学して得た情報と、阿片戦争に関する情報だけであった。
山本七平bot @yamamoto7hei
⑦尾高は江戸で海保章之助の塾に入り、同時に尊皇の志士とも交際して様々な情報をもたらしたらしい。 彼の情報はこれに限定されていたから「尊皇攘夷」になって当然である。 そしてこの情報だけで判断し、高崎城乗っ取りという暴挙に出ようとする。
山本七平bot @yamamoto7hei
⑧これはちょうど大学という限定された社会の中で、新左翼の一員となり、その集団内の価値判断だけで、世界同時革命を夢見て直接行動に出ようとするのに似ている。 だがそれが挫折し、彼は京都に出て、一橋家に身を寄せる。
山本七平bot @yamamoto7hei
⑨当時の京都は日本の情報の中心であったから、彼は、この情報によって「流行」すなわち当時の時代感覚を身につける。 そしてそうなってみると、高崎城乗っ取りなどということは、まさに夢物語にすぎないことを知る。
山本七平bot @yamamoto7hei
⑩こういう場合、彼は決して過去に拘泥しない。 限定された情報に基づく誤れる判断は、誤れる判断として捨ててしまう。 だが、彼は別に収入がないので京都での生活は難渋を極めた。 ここで彼は、徳川慶喜の用人平山円四郎に会う。 栄一は…彼に助けられて一橋家に仕えることになった。
山本七平bot @yamamoto7hei
⑪一橋家は徳川の一族とはいえ尊皇の家柄であり、当時の役目は御守衛総督だから一応筋は通っている。 だがその慶喜が十五代将軍となると情勢は異なってくる。当時の幕府は既に長州征伐に敗れて権威を失墜している。 栄一がその幕臣となる事は変節であると共に、みすみす倒れる側に組する事になる。
山本七平bot @yamamoto7hei
⑫これにはさすがの彼も弱ったらしく「余は失望落胆、不平、不満やるかたなかりき」と記している。 ところが慶応二年…慶喜の弟の昭武がフランスヘ行く事になり、それに随行せよという命令を受けた。栄一は二つ返事でこれを承諾した。 いわば尊皇攘夷論者が…夷狄の国ヨーロッパヘ行くのである。
山本七平bot @yamamoto7hei
⑬だが当時の彼は新しい情報により新しい判断を下していた。 渋沢栄一の面白い点は先入観や伝統的な偏見をもってものを見ない点にある。 美しいものは美しいと感じ、壮大なものは立派と感じ、おいしいものはおいしいものと味わう。
山本七平bot @yamamoto7hei
⑭バターも牛乳もとらず、肉食もしなかった当時の日本人が、食物に偏見をもっても不思議ではない。 この偏見は仲々抜けないもので、ネズミがいかに美味であるといっても、 「じゃ、ネズミを食べましょう」 という人間はなかなかいない。
山本七平bot @yamamoto7hei
⑮欧米人が鮨を「美味」と感ずるまでには、明治以来の一世紀以上の歳月を要している。 私は戦後フィリピンの収容所にいたが、そこの所長などは「生の魚を食う」ということに身震いしていた。 だが渋沢は京都で困窮したとき、平気でネズミを食い「うまかった」と晩年述懐している。
山本七平bot @yamamoto7hei
⑯そういう彼だから、フランス行きの船中の食事もうまい物はうまいとしており、またパリの女性をも美しいから美しいとしている。 …正しく情報を受けとるには先入観を排除して、感覚を研ぎ澄ますことが第一であろう。 人間は偏見をもったり、何かのイデオロギーにかぶれると見ても見えなくなる。
山本七平bot @yamamoto7hei
⑰「ソビエトは労働者の天国」論や「文革下の中国は理想社会」論などと対比すると、尊皇攘夷のコチコチで高崎城乗っ取りまで計画した彼の、情報への柔軟な態度は少々驚きである。 だが彼の情報の受け取り方の背後には、高崎城乗っ取りに至るまでの、彼の考え方や生き方がやはり生きている。
山本七平bot @yamamoto7hei
①彼をいたく感動させたのは銀行家フロリヘラルドと陸軍大佐ヴィレットの応待である。 当時の感覚からいえばフロリヘラルドは金貸しの大町人であり、ヴィレットは位の高い御武家の筈である。 しかしこの御武家がこの町人に一目も二目も置いている。<『1990年代の日本』
山本七平bot @yamamoto7hei
②恐らく彼は十七歳の時、父の名代として代官所に呼び出された時のこと、そして 「お姫様がお輿入れ遊ばすについて諸事お物入りにつき、その方共に御用金を申しつける」 といわれた時のことを思い出したであろう。
山本七平bot @yamamoto7hei
③彼はこれに抵抗し、決して「即刻お受け致します」とはいわず、何をいわれても頑として「父に申伝えました上」で頑張り通した。 そして侍だというだけで、人から金をもらうのさえ威張りちらすのは、世の中が間違っている、幕政が悪いのだ と感じた。
山本七平bot @yamamoto7hei
④これがなければ、フロリヘラルドとヴィレットの関係は逆に奇異に見えた筈なのである。 そう見えなかったのは柔軟な合理的精神の故であろう。 渋沢はこのような態度で対象を見た。 昭武の一行は随員とも29名いた訳だが貪欲にかつ正確に日本に必要な情報を獲得したのは彼だけであったろう。
山本七平bot @yamamoto7hei
⑤そこで特に彼の注意をひいたのは「合本法」(株式組織)、「銀行」、「請合」(保険)そして重工業であったが、それよりも先に何よりも驚いたのは、当時の日本などとは比較にならぬ繁栄ぶりであった。 彼はこれに素直に感嘆して次のように書いている。
山本七平bot @yamamoto7hei
⑥【西洋の開化文明は聞いていたより数等上で驚き入る事ばかりです。天下の気運とでも言うのでしょうか、人知の及ぶところではありません。…私の考えでは結局外国に深く接して長ずる点を学び取り、わが国の為にする他なく、以前の考えとは反対のようですが、日本が孤立する事など思いもよりません。】
山本七平bot @yamamoto7hei
⑦【当地の物価の高いことは日本の五、六倍です。しかし金融は自由自在で紙幣も流通し、正金同様に通用しています。世界の情勢は物価を一国内だけの相場に止めておきません。外国と交際する上は、外国で適用している金本位制にするより、日本の物価を安定させる道はないと考えます。】
山本七平bot @yamamoto7hei
⑧【文物の富、器械の精は、かねて聞き及んでいましたが、その実際を見て一段と驚きました。人が道に落ちているものは拾わず、通行人が道をゆずり合うゆかしさなども、実際のことです。そして水や火を使う便利な仕掛にも驚きました。パリの地下はすべて水と火の道です。】
残りを読む(7)

コメント

コメントがまだありません。感想を最初に伝えてみませんか?

ログインして広告を非表示にする
ログインして広告を非表示にする