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山本七平bot @yamamoto7hei
①【第一国立銀行創設ヘ】渋沢栄一は前述のように自ら「半農・半商・半工」と称したが、実に父の代から小なりといえ経営者であり、企業家精神をもち、企業をどのように経営すべきかの基本は「家業」という形で習得している。<『1990年代の日本』
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②従って、得た情報をすぐに実地に生かすことができた。 だが明治元年11月2日に横浜に着いた昭武の一行は、行く時とは全く違った状態で上陸しなければならなかった。 港を支配し管理しているのは明治新政府の役人や兵士であり、上陸したのは「朝敵」の片われであった。
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③何しろ慶喜は謹慎の身だから昭武に会うこともできない。 そこで渋沢は昭武の手紙をもって駿府に慶喜を訪れた。 そして慶喜の要望でその地に留り「勘定組頭」となったが、やがて辞職して「合本組織」の「商法会所」を起した。
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④これは銀行兼商社のような企業だが、彼はまずヨーロッパで得た情報に基づいて、それを実地に移したわけである。 だがここでまた彼は”変節”する。 彼は薩長で構成された明治政府に出頭を命じられる。 そこで民部省…に出頭すると「租税正(そぜいのかみ)に任ず」という辞令を渡された。
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⑤これには幕臣である彼は驚き、さらに任官する気が毛頭なかったので、実力者である大隈重信の所に断りに行った。 しかし流石は大隈で巧みに弁舌を振るい…余りに辞意が固いと、慶喜が故意に旧臣を新政府に近づけないようにしていると受けとられる、これは徳川家の為にならないと言った。
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⑥そしておそらく大隈の内意を受けたと思われる大久保一翁からも、固辞すると慶喜に迷惑がかかるように言われ、ついに新政府に出仕するようになった。 だが出仕したとなると、彼は、自らが「あるべき姿」と考えた状態を目指して全力投球をした。
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⑦事実彼が静岡の商法会所でいかに頑張ったとて、藩が存在し、租税が昔ながらの米納では、発展に限度がある。 そこで彼の行ったことは、企業が発展しうる前提を整備することであった。
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⑧まず行ったのが廃藩置県の草案づくりだが、最も大きな努力をしたのが税法の改正、すなわち米納を金納に切り替えることであった。 明治新政府が出来たといってもまだ租税は米で納められ、政府は必要に応じてそれを売っているわけだから、到底近代的な政府などとはいえない。
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⑨ところがこれを金納に切り替えることは、現在の「食管廃止」よりも難事業であった。 というのは金納のために一斉に米を売れば産地では米が暴落する。 一方、政府には手持米というものがなくなるから、江戸をはじめとする都市で米価が暴騰しても方法がない。
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⑩鉄道すらない時代の流通機構の不備を考えれば、この状態が起りうる可能性は非常に強く、もし起れば暴動に発展するかも知れない。 それよりも米納のままにして、政府が常に手持米をもっていた方が安全であるという議論は、当然に成り立つ。
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⑪ところが彼は、絶対にそうならぬよう綿密な計画を立て、実施の段取りをつけたところで辞任した。 従ってこの実施は陸奥宗光によって行われたが、実施に至らせたのは彼である。 だが、この辞職は必ずしも計画的ではなかった。 それは…彼が大蔵卿(大臣)の大久保利通と衝突したからである。
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⑫明治の目標は「富国強兵」であったが、渋沢はあくまでも「富国富民」であった。 そこで膨大な陸海軍予算を鵜呑みにした大久保に対し、歳入すら明確でないのにそのような巨額な支出を予め決定するとは承服できないと反対した。
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⑬大久保は怒った。何しろ薩長絶対であり、しかも…大久保の権力もまた絶対である。 それを…異例の抜擢である筈の幕臣出身の彼が面と向って反対するなどとは、とんでもない事であったのであろう。 ここに彼の「流行」の敏感は、決して合理性を無視して権力への「追従」でない事が示されている。
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⑭この二つは似たように見えるが決して同じではない。 だが大久保は、渋沢など無視してよい位置にいた。 これが契機となって彼は辞職した。

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