江戸幕府軍の落日「鳥羽・伏見の戦い」

扇さん(@ougi1515)が鳥羽・伏見の戦いについて語った一連のツイートをまとめました
1
@ougi1515

今日は鳥羽伏見の戦いについて語りましょうか。 今迄チョロっとでしか喋ってなかった鳥羽伏見の戦いだけど今回は割と詳しく語っていく 鳥羽伏見の戦いというのは旧幕府軍と新政府軍が戦った戊辰戦争最初の戦闘。なぜ旧幕府軍というかといったらこの時すでに大政奉還が成され徳川幕府は消滅してたから

2015-06-25 22:37:40
@ougi1515

薩摩長州など反幕府勢力が台頭し最後の将軍:徳川慶喜は1867年に大政奉還を決断。徳川幕府は滅んでも徳川家は残り新政権に参加する、それが狙いだった。 それを許さない薩摩長州は王政復古の大号令を発令し、慶喜に官位剥奪、領地没収の処分を課す。 対する慶喜は抵抗はせずに大坂城に入城する。

2015-06-25 22:42:02
@ougi1515

出来上がったばかりの新政権は政治能力が乏しく、ほっておけば自ら瓦解し必ず慶喜の参閣を打診する。この慶喜の読みは当たり、一部朝廷の公家の中には慶喜参閣止む無しの声まで上がる。 薩摩の西郷隆盛はそれを許さなかった。 将軍のお膝元の江戸で火付けや強盗を働き社会不安を煽ったのである。

2015-06-25 22:47:26
@ougi1515

江戸で好き勝手されて黙って見ているわけにはいかない。慶喜の反対を押し切って旧幕府軍は京都に進撃。その数一万五千。 出陣理由は朝廷を惑わし天下を私する薩摩を討つ為。 迎え討つ京都の薩長軍は未だ兵整備が出来ず三千から五千の軍勢。数では圧倒的不利であった。では何故旧幕府軍は負けたのか。

2015-06-25 22:53:12
@ougi1515

理由は旧幕府軍の指揮系統の不透明さが挙げられる。 京都に道は鳥羽街道、伏見街道の二つあり旧幕府軍は二手に分かれて進撃。伏見には先発隊の新選組がすでに伏見奉行所に陣を張っていた。しかし旧幕府陸軍奉行の竹中重固は新選組に立ち退きを命令。当然新選組にも面子はある。立ち退きを拒絶した。

2015-06-25 22:59:50
@ougi1515

味方同士で小競り合いが続いていた一月三日の夕刻。大砲の音が轟き伏見奉行所は攻撃を受けた。 伏見奉行所の北にある御香宮神社に布陣する薩摩藩からの砲撃だった。 鳥羽で火蓋が切られた戦いが伏見にも飛び火してきたのだった。新選組や幕府軍は応戦するも高台から砲撃する薩摩藩になす術もなかった

2015-06-25 23:05:15
@ougi1515

この時薩摩陣地に夜間斬り込みを命令し幕府軍を指揮したのは新選組の土方歳三だった。総指揮官の竹中重固はこの時、軍議の為とか言って戦場に不在。総大将の徳川慶喜は大坂城に篭りきり。 一方薩長軍の総指揮官の西郷隆盛は危険を承知で戦場の最前線で指揮をとった。両者の違いは結果に色濃く現れる。

2015-06-25 23:10:05
@ougi1515

総指揮官が不在のため会津藩の一部隊が薩摩軍陣地を偶然突破してもすぐには決断を下せないなどの後手後手采配で結局夜半には薩摩軍の絶え間ない砲撃により伏見奉行所は炎上陥落。 しかし鳥羽ではまだ戦闘が続いていたので旧幕府軍の伏見隊は一月四日に鳥羽隊と合流し薩長軍を蹴散らすことに成功する。

2015-06-25 23:15:59
@ougi1515

しかし夕刻になり旧幕府首脳陣はまたもや意味不明な命令を発する 「日没が近づいたので一旦兵を引き上げよ」 当然新選組や会津藩の兵はいきり立った。今薩長軍を追って入京すれば確実に薩長軍を討滅出来るのに何故意味のない撤兵を命じるのか。 結局兵士達の意見は聞き入れられず旧幕府軍は撤退する

2015-06-25 23:21:32
@ougi1515

一月五日。旧幕府軍は淀の千両松に布陣。ゲリラ戦法で近づく薩長軍を斬り伏せていた。 だが会津藩指揮官であった神保修理は薩長軍陣地に翻った日輪の旗に驚愕する。それは天皇家の軍であることの証である錦の御旗であった。 兵力で劣る薩長軍の為に大久保利通が岩倉具視に頼んで用意させたのだった。

2015-06-25 23:27:27
@ougi1515

神保修理も早馬を飛ばして大坂城の徳川慶喜に報告。 官軍となった薩長軍は勢いそのままに旧幕府軍を蹴散らした。 旧幕府軍は老中:稲葉正邦の居城である淀城で立て直しをはかろうとするが城を守る淀藩は城門を固く閉ざし旧幕府軍を入れようとはしなかった。しかもこれは藩主:正邦抜きでの決定だった

2015-06-25 23:33:31
@ougi1515

淀藩は逆に進撃してきた官軍に城を明け渡した。天皇家には刃向かえないと判断した上での決断だった。 淀藩に裏切られた旧幕府軍は天王山の麓の山崎と男山の麓の橋本に陣を張る。 夕刻、慶喜からの使者が来る。 「千騎が一騎となっても退いてはならぬ」 慶喜の言葉に橋本の陣地は沸き立ったという。

2015-06-25 23:38:56
@ougi1515

一月六日早朝、戦いの火蓋が切られる。この時官軍は橋本の旧幕府軍主力に攻撃を仕掛け天王山の津藩には全く攻撃をしなかった。津藩が官軍に攻撃したら挟み撃ちをする格好となり確実に勝つ。 昼になっても津藩は動かなかったが昼過ぎにようやく砲撃を始めた。あろうことか味方の旧幕府軍に向かって。

2015-06-25 23:44:51
@ougi1515

実は一月五日の夜半に朝廷からの使者が津藩に来ていた。 「錦旗が上がった以上、旧幕府軍は賊軍である。かくなる上は官軍に味方せよ」 津藩も土壇場で旧幕府軍を裏切ったのだった。側面を突かれた旧幕府軍は一挙に壊滅。 こんな戦況にあっても土方歳三だけは進め進めと味方を鼓舞し続けたという。

2015-06-25 23:49:51
@ougi1515

相次ぐ裏切り、戦意喪失の理由は、旧幕府軍や諸藩は朝廷、天皇家を薩長から護るために出陣したのであって天皇家に弓を引くつもりは毛頭無かった。天皇家に弓を引くということは賊になるということ。現代とは違い天皇は神格化された存在の為何人たりとも天皇家に刃向かうことは出来なかったのだ。

2015-06-25 23:55:47
@ougi1515

また長年幕府を支え続けた彦根藩も新政府軍に恭順し、伊勢方面から近江経由で京都に進軍する予定だった旧幕府別働隊も動けなかった。(そもそも官軍50人の先発隊が近江を押さえたと幕府側が勘違いしたことが発端) これにより新政府軍は背後を突かれる心配がなくなり目の前の旧幕府軍に集中出来た。

2015-06-26 00:00:41
@ougi1515

敗走した旧幕府軍は8日の夜に満身創痍の中、大坂城に入城。そこで更なる裏切りを知る。総大将の徳川慶喜がいなくなっていた。 慶喜は6日の深夜に僅かな側近と共に江戸へ逃げた後だったのだ。 中には大坂城を枕に討ち死に覚悟を決めていた者もいただけにその落胆ぶりはいかほどのものだったろう。

2015-06-26 00:06:04
@ougi1515

早馬を飛ばした会津藩軍事総督の神保修理は慶喜と主君:松平容保に恭順策を進言したとされ、これが逃亡劇の要因を作ったとも言う。陣営には修理が残ることとなったが元々彼は主戦派ではなかった。その為、会津藩内の抗戦派から睨まれるかたちとなり敗戦の責任を一身に受け後に自刃することになる。

2015-06-26 00:11:21
@ougi1515

朝敵となった旧幕府は日本唯一の政権という地位を完全に失う。西日本諸藩は官軍に従い、この後約一年間に渡って北関東で会津で箱館で戊辰戦争が続くことになる。 鳥羽伏見の戦いにおける官軍の勝因は近代兵器を多数有していた為とよく言われるが私は根本的な所はもっと別なところにある気がする。

2015-06-26 00:16:24
@ougi1515

鳥羽伏見の戦いの雌雄を決した地、橋本。三百年前、羽柴秀吉が明智光秀を破って天下取りの第一歩を踏み出した地が同じように薩長軍の天下取りの第一歩の地となった。 戊辰戦争での旧幕府軍の遺骸は賊兵ということで埋葬すら許されなかった。旧幕府軍の墓が建てられたのは明治も中期になった頃だった。

2015-06-26 00:22:22
@ougi1515

鳥羽伏見の戦いの激戦地の一つ、淀の千両松古戦場跡には昭和に入ってから慰霊碑が建てられ碑文には 「幕軍、官軍、いずれも信じたるまま己等の誠を尽くし士道に殉じた。ここに百年の歳月を閉じ不幸賊名に斃れたる誇り有る人々に対し今慰霊碑の建つるを見る。在天の魂依って瞑すべし」 とある。

2015-06-26 00:27:11
@ougi1515

徳川の葵御紋(三つ葉葵)というのは江戸時代では絶対的なシンボルだったものが錦旗という新時代のシンボルが登場し、鳥羽伏見の戦いはまさに新時代の到来を告げる戦いとなったといえる。 これ以降日本は天皇を中心とした近代国家を建設していくことになる。

2015-06-26 00:29:44