『新時代の帝都・東京』の誕生

明治天皇と東京遷都について扇さん(@ougi1515)が語ったことをまとめました
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@ougi1515

元々日本の首都は京都であるがそれを知っている人は何人いるだろう?首都が京都から東京に変わったのは明治の始めである。所謂東京遷都だ。 遷都を実現させたのは薩摩藩士の大久保利通。今日は東京遷都にまつわるエピソードを語っていこう。 話しは前回お話しした鳥羽伏見の戦いの直後までに遡る。

2015-06-29 22:15:14
@ougi1515

鳥羽伏見の戦いの結果、旧幕府軍は朝敵になり西国諸藩は新政府軍についた。これにより今後の政治は朝廷が中心となり政治を行っていくことは確実となったわけだが明治天皇を取り巻く保守派の公家達は天皇自身が政治に参加することに否定的だった。天皇親政は後醍醐天皇以来600年間なかったからだ。

2015-06-29 22:22:18
@ougi1515

更に明治天皇はまだ17歳であり天皇には今まで通り御所の奥で威光をかざして頂くだけで良いというのが保守派の考えであった。 大久保はこの考えを真っ向から否定する。これから日本は朝廷を中心に統一国家となる。それには強力なリーダーが必要不可欠。大久保はそのリーダーに天皇を据えようとした。

2015-06-29 22:25:42
@ougi1515

この時代の天皇というのは公家衆によって隔離され国民の前に出たことは一度もなかった。だが欧米の君主というものは国民と距離が近く国民の父母として敬われている。つまり天皇自ら国民の前に出向き新時代の君主として魅せないといけない。 更に徳川幕府が潰れた今日本は一種の無政府状態にあった。

2015-06-29 22:28:50
@ougi1515

その為日本は早く内外にも天皇の威光を示し天皇こそが新時代のリーダーであると宣言する必要があった。 大久保は保守的な考えを一新し上記のように威光を示せるのは遷都しかないと確信し一月十七日に大坂遷都建白書を提出。 京より近く軍艦も停泊する港がある大坂が新しい都に相応しいと考えたのだ。

2015-06-29 22:32:40
@ougi1515

しかしこの案は保守派公家の反対がとても強く3日で廃案に追い込まれる。玉座は平安時代以来1000年動いたことがなく、これは政治中枢を抑えようとする薩摩の陰謀とまで批判された。 旧幕府軍との戦争(戊辰戦争)が未だ続いている中、新政府の内部分裂だけは避けなければならなかった。

2015-06-29 22:37:22
@ougi1515

大坂遷都案は潰れたがどうしても諦めきれない大久保は革新派の岩倉具視に相談。 そこで遷都という言葉を使わずに行幸としてみてはどうかと意見される。行幸とは早い話が視察であり遷都とは違う。鳥羽伏見の戦いの被災地に天皇が行幸することにより内外にも天皇の威光を示すことは十分に可能だった。

2015-06-29 22:41:10
@ougi1515

この大坂行幸は保守派公家達の反対はあったものの大久保と政治を主導する太政官の同行はなしという条件付きで、鳥羽伏見の戦い後の被災地と大坂湾に停泊する軍艦の視察という名目で許可された。 天皇は英国公使に謁見するなど威光を示したかに見えた。ところが大久保の狙いは外れることとなる。

2015-06-29 22:43:28
@ougi1515

大名行列でも道に反れて土下座した時代である。天皇の行列となれば土下座は当然、顔をあげる者はいなかった。それどころか行列が歩いた後の砂や石を御利益がある御守りとして売り出す者や、天皇のウ◯コを御守りとして拝領したいと言い出す者さえ現れた。 国民にとって天皇はあくまで神様であった。

2015-06-29 22:46:57
@ougi1515

天皇を国家の君主としたい大久保と1000年間変わらず天皇を神様として見てきた民衆とのギャップは酷く大久保は悩む。 そんな大坂行幸の折、大久保は明治天皇に呼び出される。天皇は大坂行幸を計画した大久保を気に入り感謝の言葉をかけたのであった。 「感涙の他これ無し」 大久保の言葉である。

2015-06-29 22:52:01
@ougi1515

ギャップはまだあるものの、天皇自らは変わろうとされている。大久保は密かな手応えを感じていただろう。 4月。江戸城無血開城により官軍は徳川幕府の政治中枢である江戸を掌握した。 そんな時期、大久保の元に江戸遷都建白案が送られてきたのである。差出人は前島密。後に日本郵便の父と呼ばれた。

2015-06-29 22:56:04
@ougi1515

前島曰く、大坂はほっておいても商業の町として栄えるが江戸は将軍のお膝元として栄えた町。町の象徴が無くなれば江戸は衰退する。大坂城は先の戦争で消失したが江戸城はまだ残っている。政治基盤が無傷で残った江戸が都に相応しいというのだ。 大久保もこれに賛成し江戸遷都案を練り上げていく。

2015-06-29 23:00:45
@ougi1515

佐賀藩の江藤新平らも東西両都論という構想を朝廷に提出していた。これは政治中枢を江戸に移しゆくゆくは江戸京都間を鉄道で結ぶというもの。ここで江藤は保守派の反対を抑えるため江戸を東京と改めている。ここで東京という言葉が初めて登場し大久保もここに着目し、天皇の東京行幸を立案する。

2015-06-29 23:07:13
@ougi1515

5月15日、上野に立てこもった彰義隊が大村益次郎率いる官軍に一掃されると大久保は江戸に入って江戸が本当に遷都が可能な地か現地の新政府幹部達と協議し正式に東京行幸を宣言する。 だが1ヶ月経っても東京行幸の日は決しなかった。保守派公家達からの猛反発があり日程が一切決まらなかったのだ。

2015-06-29 23:11:23
@ougi1515

大久保はすぐさま京都に戻り保守派公家達を抑えて東京行幸を決定させた。佐賀藩士の大木喬任はこの時の会議の席での大久保をこう評した。 「愚痴の寄合は良薬なく、大久保の一服でこぶのような病気が治った」 グダグダな会議はなにも進展しなかったのに大久保が来たら一瞬にして決定した。

2015-06-29 23:14:03
@ougi1515

世が慶応から明治に改元された12日後の1868年9月20日。明治天皇は3300人の大行列を従え東京行幸が始まった。 道中、天皇は農村の稲刈り、漁師の地引網を天覧し菊の紋の入った饅頭を配るなど民衆との交流につとめ10月13日、東京に到着した。江戸城は東京城となり皇居と定められた。

2015-06-29 23:18:55
@ougi1515

「千載一時の盛典、歓喜言うべからず」 千年に一度のこの盛典は言葉に出来ないほどの喜びである。大久保の言葉である。 結局大久保は一度も遷都という言葉を使わず東京遷都を実現させた。東京遷都は民衆にもあくまで京都が日本の首都よと言って移ったが、首都機能はだんだん東京に移ることになる。

2015-06-29 23:25:58
@ougi1515

なので京都の年配の人は未だに天皇さんは東京に遊びに行ってるだけ、という方もいる。 実は日本の法令上現在も東京が首都と定義されていない。なので東京遷都ではなく東京奠都であるという学者もいる。遷都には都を移すと同時に旧都廃止の意味があり、奠都は単純に都を定めるというだけの意味。

2015-06-29 23:31:10
@ougi1515

奠都という大事業を成功させた大久保は新政府の首脳として様々な改革を断行。だが急速な日本の近代化は様々な不満を噴出させ批判は大久保に集中する。 大久保曰く 「国家創業の際、難事は常に起こる。そこに自分一人でも国家を維持するほどの器が無ければ辛さ苦しみを耐え忍び志を成すことは出来ぬ」

2015-06-29 23:34:13
@ougi1515

そんな言葉を遺して大久保利通は明治11年5月14日に不平士族により暗殺される(紀尾井坂の変)。享年49。 死の直前、知人に明治の最初十年を創業、次の十年を建設、更に次の十年を発展の時期と語った大久保利通。 彼はまさに明治創業の時代に命をかけた男だった。

2015-06-29 23:39:47
@ougi1515

そろそろ時間だね! 次回は日本陸軍の父、大村益次郎についてだ!

2015-06-29 23:41:29