山本七平botまとめ/【文庫版へのあとがき】マッカーサーという”権威”から与えられた憲法は変えられない/「式目と幕府」という日本独自の伝統で現実に対処せよ

山本七平『1990年代の日本』/1990年代の日本/文庫版へのあとがき/266頁以降より抜粋引用。
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山本七平bot @yamamoto7hei

①【文庫版へのあとがき】「これから、どうなるか」でなく「どうするか」である、 と本書で提言してから、すでに四年の歳月が流れた。 その間、日本人の意識も徐々にではあるが「なる」から「する」へ移行していると思われる。<『1990年代の日本』

2015-06-30 21:09:16
山本七平bot @yamamoto7hei

②顕著な一例は「一体、国鉄はどうなるのか」から「どうするのか」に転じたことであろう。 そして「する」の方向へ意識が転換したときにはじめて対策が生れるのであって、 「どうなるか、どうなるか」 と言っている間は対策は生まれない。

2015-06-30 21:38:51
山本七平bot @yamamoto7hei

③これは、全ての問題にいえること、もちろん外交にもいえることで「日米関係は一体どうなるのか」と言っている間は、何の対策も生れない。 「どうするのか」という発想に転じたときに、意外に早く問題は解決するであろう――国鉄の場合と同じように。

2015-06-30 22:09:05
山本七平bot @yamamoto7hei

④そして我々の周囲には…問題が山積している。 「自分で造ったものは自分で変えられる」、 しかし「権威から与えられたものは変えられない」 これは日本人だけでなく、全ての民族に共通している事であろう。 簡単にいえば「コーラン」を変える事はイスラム教徒にはできないのである。

2015-06-30 22:38:52
山本七平bot @yamamoto7hei

⑤そして日本の場合は、ある時代の権威として輸入された法と体制を絶対に変えられないものと考えた時代があった。 古くは律令がそうであり、近くは明治の「不磨の大典」がそうである。 マッカーサー憲法もこの延長線にあるであろう。 だが、日本の歴史の最も長い部分では決してそうでなかった。

2015-06-30 23:09:05
山本七平bot @yamamoto7hei

⑥「式目と幕府」は武家が自ら造り出した法と体制である。 こういう場合は実情に合わなくなれば法も制度もいつでも変えられる柔軟性をもつ。 「式目」は必要な法をつぎつぎに制定し、不要になったもの、実情に合わなくなったものは、棄破(今でいう破棄)している。

2015-06-30 23:38:52
山本七平bot @yamamoto7hei

⑦これは、自ら造り出したものは、自ら、主体的に変えうるということである。 そこにはまた「官という権威」がなくなったことも作用しているであろう。 だが、注意しなければならぬことは、彼らは絶対に「律令改正論者」ではなかった。

2015-07-01 08:09:05
山本七平bot @yamamoto7hei

⑧律令の論議は明法家(今の憲法学者?)にまかせて、実際家である武家は、変えるべきものを変えていったにすぎない。 これが日本の伝統であろう。

2015-07-01 08:38:51
山本七平bot @yamamoto7hei

⑨21世紀までに何をしておくべきか。様々な課題がある。それの処理には日本の長い伝統に基づいて「法も制度も人間が造ったものだから人間が変えうる」として「必要ならば変えねばならぬ」を前提としなければならない。 しばしばいわれる「人間尊重」という言葉もこの基本を無視すれば空文となる。

2015-07-01 09:09:16
山本七平bot @yamamoto7hei

⑩というのは制度の方が人間より優先し、人間に無意味な拘束を加え、割を与えるからである。 このことが最も端的に示されているのは、教育制度の硬直化と教育の荒廃の関係である。 もちろん制度がかわればすべての問題が解決するわけではない。 国鉄がJRに変わっても間題はあるであろう。

2015-07-01 09:38:51
山本七平bot @yamamoto7hei

⑪だがそのことは、法と制度を硬直化し、国鉄を永遠にそのままにしておけということではない。 それを考えれば、21世紀までに何をすべきかは自ら明らかになる。 その宿題を完全に果して、その成果を次の世紀に申し送ることが、現代に生きる者の義務であろう。 昭和62年8月 山本七平

2015-07-01 10:09:05