山本七平botまとめ/【日本のこれまでを支えたものは何だったのか⑥】徳川時代の年功序列制(丁稚、手代、番頭、大番頭、宿這入り、暖簾分け)/中小企業の年功序列制は徳川時代に完成していた

山本七平『日本資本主義の精神~なぜ、一生懸命働くのか』/第一章 日本の伝統と日本の資本主義/日本のこれまでを支えたものは何だったのか/徳川時代の年功序列制/29頁以降より抜粋引用。
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山本七平bot @yamamoto7hei
①【徳川時代の年功序列制】中小企業の「年功序列」などというと、人は不思議に思うかもしれない。 また、中小企業にはそれがないという人もいる。 しかし、その中で生きている人間からみれば、それは「功」の転化の方法が違うというだけで、基本は大企業と全く同じなのである。
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②だが、そのような抽象的な解説はやめて、ここで、戦後約20年間、共に暮らしてきたに等しい印刷、製本、製函等の諸会社の社長の履歴を要約してみよう。 その履歴書のなかに、中小企業の「年功序列」が記入されているのだ。<『日本資本主義の精神』
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③Hさんは、既に60歳の半ば、今では楽隠居の身分である。 誠実な職人肌の人だが、普段は驚くほど無口で無愛想、私のところの社員なども、はじめは何となく敬遠していた。 しかし付き合えば付き合うほど親しみと信頼を増す人である。
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④そしてアルコールが入ると人が変わったように能弁になり、普段は絶対に口にしない自分の経歴とか体験とかが、驚くべき速度でその口からほとばしり出て、とどまることを知らない。 私は氏の話に関心をもち、何回か、半ば徹夜でそれを聞いた。 氏は東京近県の貧農の出身である。
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⑤そして小学校卒業前に銚子の傘屋に小僧にやられた。 簡単にいえば「食えない農家」の「ロベラシ」であり、衣食住の最低は支給されるとはいえ、年中無体の無賃労働にやられたわけである。 氏は、実に忍耐強い人なのだが、やがて、その傘屋の扱いの過酷さに耐えかねて、出奔した。
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⑥一種の家出少年となった訳だが、今日の家出少年とは事情が違う。 だが、出たものの行くあてがないのは同じで、仕方なく東京目がけて歩きだした。 飲まず食わずの野宿である。そして、全く事情を知らぬ東京をうろうろし、空腹と疲労で行き倒れになる寸前に、壁に張ってある小紙片が目についた。
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⑦「小僧求む」――彼は夢中でそこへ飛び込んだ。 そこが偶然に製本屋であり、その偶然が彼の生涯を決定した訳である。 そこは当時としては日本で一、二と言われた製本会社で、いわば業界の大手なのだが、昭和の初めにおける「大手」がどのような実態であったのか、氏の話を少し辿ってみよう。
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⑧社屋は大震災後に建てられた木造の三階で、その三階が住み込みの小僧の居室、三階の一部には店主一家が住むという、文字どおりの職住一体の「店舗付住宅」ならぬ「工場付、社宅付、住宅」なのである。
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⑨就業時間は通常午前8時から午後8時まで、月に半分ほど夜業と深夜業があり、休日は1日、15日の月2回であった。 今では忘れられているが、昭和30年頃までは、この伝統は残っていた。 小僧には勿論、朝の掃除と夜の後片づけがある。 Hさんは小柄である。
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⑩「アッシは小さいでしょ。…朝七時ごろ、自分の丈より高い箒で店の前を掃いていると、折りカバンをもって角帽をかぶった大学生さんが店の前を歩いて行くんでさあ――。 アッシにゃその人達の生活は想像もできないが、ああいう身分に生まれたかった、と思いましたな。」 氏の述懐である。
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⑪だがしばらくして、工場の様子が判ってくると、自分の前途とて決して真っ暗でない事を知った。 氏の説明を聞いていると、それはまさに徳川時代の享保の頃の年功序列の世界なのである。 享保の頃も氏の時代も、商店には、丁稚、手代、番頭、大番頭、宿這入り、暖簾分け、という序列があった。
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⑫今でいえば、社員、係長、課長、部長といったところかもしれない。 宿這入りとは、住み込みから解放され、店外にいわば「社宅」を与えられ、そこから通勤する身分である。 それまでは「住み込み」である。
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⑬Hさんの頃の就職年齢は14歳ぐらいだったから、勤続30年、即ち今なら停年になる年月を勤めても44歳である。 徳川時代にも45歳位で隠居という例が多いが、当時も今も、人間が働ける期間は大体30年位なものかもしれない。 当時は「人生50年」だから、それが当然なのかもしれない。
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⑭さて、以上は、商店の場合で、小工場はこれと多少違う。 小工場には、小僧、職人、職長という序列があった。 職人は技術者なので、ここでストップする例が多いが、私の知る当時の中小企業主は殆どが職人の出であった。 なぜそうなったのであろうか。
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⑮それは、商店の場合の暖簾分けと同じような制度があったためである。 商店の場合は、いわば退職金のかわりに店主に出資してもらい、系列下のチェーン店の小店主におさまり、本店から仕入れをして販売しつつ、出資金を徐々に返済していって、独立するという形になる。
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⑯職人の場合は同じような条件で、親工場の下請けになり、仕事をまわして貰いつつ、親工場と競合しない方面での新規の顧客を開拓して、徐々に独立していく訳である。 ここに、職人にならない限り独立できない理由がある訳である。 私の知る限りでは、この時代の中小企業主は皆この形で独立した。
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⑰もちろん、いつの時代でも、人生には運不運がある。 親店や親工場がぐんぐん発展しているとき、特に、経済成長期には、このような形の独立も、しやすいわけだが、不況になると、むずかしくなる。 この独立のもつ経済的な意味を考えてみよう。
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①年功序列による賃金の上昇は、原則的に職長と大番頭でストップする。 独立がスムーズにいかなくなり、この地位がつかえていると、下の者は昇格、昇給できない。 そのまま放置すれば全体の年齢構成が老齢化してしまう。 しかも、どうしてもある程度の宿這入りはさせてやらなくてはならない。
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②いわば、社宅の支給はしなくてはならないし、賃上げもゼロというわけにはいかない。 しかし、それをすれば、最終的には、そのコストを製品に転嫁するしかないから、競争力が減退する。<『日本資本主義の精神』
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③これを防ぐには、なんとしても上を独立させて系列下の企業とし、賃金の低い――というより無給に近いが――小僧を入れて人事の滞留を防がなければならないわけである。
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④一方、小僧のほうとしても、今は無給でも衣食住には困らず、まじめにやっていれば下請けの小企業主になれ、それから先は自分の腕次第で今の店主と同じようになれるという希望があるから、たんに働くだけでなくて一心に仕事を学ぶ。
山本七平bot @yamamoto7hei
⑤それが仕事への積極性を生む。同時に定着率を向上させる、という形になる訳である。 もちろん親企業が倒産したり、本人が組織を離れた一匹狼の職人、いわゆる「渡り職人」になってしまってはそうはいかない。渡り職人の方が賃金は高いから、この方向に呑気に生涯をすごした方がよいという者もいる。
山本七平bot @yamamoto7hei
⑥この場合の賃金支払いは、一種の請負制の場合が多かった。 植字工などには特にこれが多く、この事を「投げ」といった。 一ページいくらで請け負うのである。この場合は、技術だけの下請けという形になる。 しかし、この渡り職人になったら、収入は多くなるが、将来への道は閉ざされる。
山本七平bot @yamamoto7hei
⑦私の知る中小企業主の中には、渡り職人出身は一人もおらず、就職から暖簾分けまで、一社で過ごした人だけであった。 その理由は後述しよう。 これが、中小企業の年功序列制であった。
山本七平bot @yamamoto7hei
⑧いわば「年」と「功」が、ある企業もしくは企業群の中の序列へとごく自然に転化していき、その全部が一種の共同体を構成しているのである。
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