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k_wota @k_wota
いろいろ言われてる文科省だけど「新国立競技場にサブトラックは要らない。仮設で十分」という、正しい判断もちゃんとしている。
k_wota @k_wota
そりゃ国交省の方が建築に詳しいけど、サブトラックの取捨選択とか、日本の音楽市場の規模と需要がどう、とか判断できないから一歩引いてたわけでしょ。あと設計支援業務で建設技術研究所も入ってるのに何やってんだ、て話で、国交省が適所適材の観点から何も協力出来なかった体制でもないでしょ。
k_wota @k_wota
東京五輪(1940)のスタジアム計画の変遷がグダグダで、調べてみると面白いよ。
k_wota @k_wota
政府の新国立競技場白紙撤回のタイミングに関しては、いろいろ勘ぐられているが、鋼材のロール発注直前だったのは事実で、ぎりぎりまで判断に迷っていたのかもしれない。
k_wota @k_wota
東京五輪(1940)の幻の駒沢スタジアムは竣工予定の24ヶ月前、ちょうど鋼材の総量を調整している最中にオリンピック返上が決まった。今度の新国立も鋼材のロール発注の時期がデッドラインで、それを超えてしまったら代替スタジアムでの開催に方針変更となるだろう。
k_wota @k_wota
森元首相が「湾岸のスタジアムは風が強いからIOCに拒絶された」と語っていたが、これは東京五輪(1940)の時も同じで、最初は月島埋立地に建てるつもりだったが、誘致ファイル提出直前になって風の問題に気付いて急遽、変更した。
k_wota @k_wota
東京五輪(1940)誘致時、今の新国立の予定の立地に芝生席4万人の陸上競技場はあったが、手狭で改築しても巨大スタジアムにならないし、当時も東京市内に余った敷地は無かったので、月島埋立地に余裕を持って10万人規模のスタジアムを建設する方針だった。
k_wota @k_wota
それが風の問題で誘致ファイルを書き換えるのだが、そのとき霞ヶ丘の競技場を12万人収容のスタジアムに改築する、と役人だか誰かが書いて誘致に成功してしまった。敷地面積2万2千坪の霞ヶ丘に12万人は絶対ありえない。
k_wota @k_wota
しかし一応逃げでスタジアム候補地は変更する可能性があります、とも書いておいたので、候補地は1936年に誘致に成功してからちゃんと探すことになった。東京中の第7候補地までピックアップして検討した。
k_wota @k_wota
しかしどの候補地も手狭だったり交通インフラに問題があったり、手狭な候補地の周辺用地を買収しようにも東京市がスタジアムの予算をなかなか通さなかったので、買収の目処も立たず、どの候補地にも決められなかった。
k_wota @k_wota
東京五輪(1940)はスタジアムだけでなく、競技種目とか大事なことがなかなか決められなかった。ロサンゼルスやベルリンに選手団を送り込んだ大日本体育協会は東京での五輪開催に協力的でもなかった。
k_wota @k_wota
大日本体育協会は基本、「オリンピックというが、政治家や役人はオリンピックのこともスポーツのことも何も知らないから簡単にいい加減な意見が言えるのだ」という態度で東京市との会議はだいたい荒れた。そのうち会議の日数も少なくなり、日本と世界中をやきもきさせた。
k_wota @k_wota
そういう状況でスタジアムはやはり霞ヶ丘で、と決まったのが1937年。東京市はなるべく席を詰め込みたいが、内務省神社局は明治天皇の由緒ある土地柄ということで反対したので、なかなか計画は前に進まなかった。
k_wota @k_wota
当時の建築は無理な突貫工事も当たり前の時代、と言っても1937年春の段階で具体的な計画が決まらないのは異常で、霞ヶ丘競技場の設計者の小林政一は4月に「今すぐ決めないと間に合わないぞ、芝の根付の問題もあるんだぞ」と新聞に仮設席の試案を発表して建設をうながしたが事態は進展しなかった。
k_wota @k_wota
状況が動き出したのは1938年3月に東京市議会がスタジアムの建設費として600万円の支出を可決してからだった。当時の量産型駆逐艦が建造できるくらいの十分な額だった。
k_wota @k_wota
その時になって、霞が丘の競技場に何人まで増席できる計画なんだ、というと、結局5万数千席でまとまりかけていた。予算も600万円も使い切れないという事になり、せっかく巨大スタジアムが作れる予算なのに1万数千席しか増えないとは何事だ、メインスタジアムがこれでいいのか、と問題になった。
k_wota @k_wota
東京大学の岸田日出刀は早い時期から「霞ヶ丘は手狭だから23区外に土地を確保して立派なスタジアムを建てるべき」と新聞等で主張していた。予算が足りないのと余るのと、今の新国立競技場とは状況が正反対だが、結局お金の話にならないと問題が指摘されていても解決の方向に話が進まないのは同じだ。
k_wota @k_wota
1938年4月23日、神宮外苑競技場改造案は放棄となり、駒沢ゴルフ場跡地に仮設席含めて11万人の巨大スタジアムを建設することになった。交通整備の予算もついたので道路も拡大、都心からの直通地下鉄も検討されることになった。
k_wota @k_wota
結局、それから3ヶ月もたたない7月にオリンピック返上が決まり、駒沢は幻のオリンピックスタジアムとなる。当時は統制経済で、東京市の建築課は鋼材の支給の量をめぐって企画院と最後まで交渉を続けていたという。昔の建築技術者も大変だった。
k_wota @k_wota
あと、企画院は軍部と通じていて、いよいよスタジアムに鋼材を支給するタイミングがきっかけになって、五輪返上が決まったのでは?と考えている人もいる。
k_wota @k_wota
とりあえずこの話はここまで。

コメント

Muji @ togetter憲兵隊 @643Myshelf 2015年7月21日
昔から日本って変わってないんだなあ。
緑川⋈だむ @Dam_midorikawa 2015年7月21日
世界恐慌が1929年で1940念のオリンピックはその11年後。今回も2008年のリーマンショックから12年後な訳で、いろんな状況がきっちり一致するんだよな
つらね @tsurane 2015年8月30日
面白い。一点細かいことを言えば、当時は東京市だから23区と出てくるのは誤りで35区か。
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