無時間なのか無限遡行なのか、お二方の哲学的な解きほぐしのまとめ
- sunamajiri
- 5651
- 1
- 1
- 4
西田ワールドに入ると、他の人らの文脈で、独創的とか、普通は考えられない組み合わせとか、解き難いアポリアとか、そういうのが、まあふつうっしょと無感動になりやすい。ある哲学の流れとある哲学の流れを結びつないものと考える方がむしろ難しく思われる。無論、なんでも同一物に還元するのではない
2015-07-21 21:41:35ある限定されたテキストの文献学的な厳密性に関しては、院生くらいならば、専門の教授も越えられる。しかしやはりマクロ的視野、そして総合的視野に関してベテランの人はやはり偉大である。とはいえある種の老化は学者をマクロだけの人にする(論文集に一定比率ある)が、こうなるとどんどん空虚になる
2015-07-21 21:46:35@ecila808 哲学的な真理というものは「当たり前」の積み重ねであり、 独創的なものを積み重ねるからこそ、思惟が無限ループするのかもしれませんね。 …とふと感じました。
2015-07-21 21:48:57@inja650rr それは微妙ですね。常識を積み重ねるという意味での当たり前の積み重ねならば、偏見の集積でしかありません。明証的なものの積み重ねということは、決して常識的なものではない。それでいて常識を深いところから裏付け照射する(「恩寵を自然を完成させる」に似ている)
2015-07-21 21:52:09@inja650rr デカルト的な道であっても、決して常識の積み重ねではなく、明証の積み重ねはむしろ常識を破ることであります。まして西田はある種の独創的直観をやはり持つわけですね。哲学は独立する部分部分を合わせて、全体を作る営みではないと思います。主観+客観=認識ではありません
2015-07-21 21:54:57@inja650rr 主観と客観を独立なものとして実体的に措定した上で、くっつけても認識の事態を把握できません。部分の把握は全体把握の中で行われなければいけません。そしてこの直証的な我々に具体的な当たり前の現場の全体像を把握ないし構想するためには、ある種の天才性が必要なのです
2015-07-21 21:56:42@ecila808 それは同意ですね。 デカルト的に言うと、明証性の積み重ねですね。 明証的で無いものに関しては全て偽として斥けて、 明証的であるものこそを真なりとしろという事ですね。 それはアプリオリだと信じ込んでいる事も含めてですね。
2015-07-21 21:58:48@inja650rr 「恩寵は自然を完成させる」のミスでした。より厳密には「恩寵は自然を破壊するのではなく、むしろ完成する」(Gratia naturam non tolit, sed perficit.)
2015-07-21 21:59:07@ecila808 仰る通り。常に本当に大切な部分は隠されている者です。 逆にいうと「よく隠れたるものは、よく生きたるもの」
2015-07-21 22:04:51環境(定められたシステム全体)の自己限定の極限において個、瞬間が成立するという見方が可能である。しかし瞬間が成立するとき、むしろこの個は環境全体を自己の中に包んでいるのである。環境の限定という立場から、個の限定という立場への移行には全き翻りがある。個が全体を包摂することになる
2015-07-22 00:29:42瞬間、現在、自己の根底には何もない。何かあるなら、その何かが基底とか環境となる。そうなれば過去や環境があるにすぎない。現在は過去未来を否定し超越し、己の内に包むものである。そうでなければ現在ではない。自己性を失って流された人間は現在を失い過去に流され、与えられた目的に支配される
2015-07-22 00:32:26現在はいかに過去から超越するのか、あるいはかつて目的として立てられたもの、また現在の自己企投としての未来からも超越するのか。いかに全体の中の個が全体を包摂し、そして過去を切断した上で自己の課題として新たに始めるのか。現在の底に何もない。この何も無さの力を絶対無の自覚的限定という
2015-07-22 00:37:55@ecila808 時空を無限だとすると、現在は存在しない。故に過去も未来も存在しない。 しかしそれを有限だとした瞬間に現存在は大きな可能性に満ちていくでしょう。
2015-07-22 00:38:26@inja650rr 単に有限である、finisを与えられているにすぎない、bestimmtなもの、限定されたものであるにすぎないなら、現在はないのではないのでしょうか。それは過去か目的としての未来でしかない。無限の意味が問題なのですが、単に規定されていないならば何ものでもない
2015-07-22 00:41:09@inja650rr しかし、無限を自己の内に自己を写像するとか、自己の内に対立規定を含むとかそういう方向で、限定するものの側で考えるなら、意味合いが変わってくると思います。私は個的なる現在は限定されて限定されない、そういう立場でしか限定するものにならないと考えます
2015-07-22 00:43:44@ecila808 それは実際がどうであれ、 自己の捉え方でかわるのではないでしょうか? 時空を無限だと捉える者からしたら、 恐らく現存在というものに囚われているし、 有限だとするのなら現存在から自由である。
2015-07-22 00:47:56@norokarin @J_J_Kant 輸入されてきた舶来品の哲学というものに「教化」されてしまった。 ということでしょうか?
2015-07-22 00:49:12@inja650rr 時空を有限に捉えるとどうして現存在から自由になるのかわかりません。これは単に説明の不備か私の理解力の不備です。 またその上で、私は自己の捉え方(認識者の態度というような意味でしょうか)という話に還元される次元の話をしているつもりはありません
2015-07-22 00:54:03@inja650rr あと私のいう現在は所謂時間直線の次元の話ではありません。時間直線は現在の対象化されて連続化されたものにすぎません(まあベルクソン風に弛緩したとかいうのではなく、現在の自己対象化から考えますが)。時間概念、無限概念、無概念などが共有されているか疑問です
2015-07-22 00:57:03@ecila808 例えるならば涅槃寂静とは極小の世界である。 それは0では無い。絶対に0にならない空の概念である。 しかし0は0でしか有り得ない。それは無の概念である。 時間も空間もそれは同様。これは認識者の捉え方に拠るのではないのでしょうか?
2015-07-22 01:01:34@inja650rr わかりません。涅槃が無限小のようなものだというのでしょうか。それは具体的に現実の論理としてどういう意味でしょうか。無限小なら何の転換(世界の生起であれ実存の転換であれ)。時間空間も意味によりますしね。認識者によって変わるというのも、何でもそうだという話なら
2015-07-22 01:08:18@norokarin なるほど。 それではどのような方策により言葉の理解レベルを高められ、 外国語の習得と、議論を有効に出来るとおもいますか?
2015-07-22 01:09:16@inja650rr あらゆる認識はアプリオリにそうであって(プロタゴラスのように)、だから何だという話ですし、これらの問題が固有な意味で認識者の捉え方によるとするならば、その意味が私には明らかではありません
2015-07-22 01:09:58