.@lethal_notion 宇野常寛、『ゼロ年代の想像力』、そして決断について
- millionsage
- 2907
- 0
- 2
- 6
思い出したのでついでに宣伝! 今度の土曜にイベントやります。是非お越しください。2011年1月8日(土)15時から17時「悪い哲学 ―これから悪について話をしよう―」宇野常寛+萱野稔人+國分功一郎 高崎経済大学7号館731教室 無料 http://amba.to/fHToqU
2011-01-02 19:08:05宇野さんの『ゼロ年代の想像力』については、俺も分野が違うというかなかなかキチンと言及することができずにいるのですが、本当にすごいと思えた作品でした。
2011-01-02 23:15:18宇野さんとの出会いは、東浩紀さんが取り次いでくれた電話。初めて東さんとあった時の飲み会、ふとしたことで東さんと仮面ライダーの話になり、興奮した東さんが宇野さんに電話。寝ている宇野さんを叩き起こす!
2011-01-02 23:29:24しかも、そんな状況なのに、俺がはなしていた仮面ライダースーパーワンについて、「自分にとってはスーパーワンは原点なんです」とキチンと応対してくれる宇野さん。俺恐縮。東さんは「なんで宇野くんはこの場にいないんだよ!」。恐縮しつつ、俺、爆笑。
2011-01-02 23:33:20宇野常寛さんの『ゼロ想』。「碇シンジでは夜神月を止められない」というのは見事な命題だと思いました。もともと俺がエヴァンゲリオンが苦手というのもあるし、そもそも90年代のカルチャーが大嫌いなんで、そこにはっきりとああいうことを言ってくれる人が出たことにまずは驚いた。
2011-01-03 00:46:11ただ、一つだけ用語法に疑問があって、夜神月の態度を宇野さんは「決断主義」と言いますね。宇野さんが言っている内容には特段疑問はないんだけど、なぜ夜神月の態度を決断主義と言えるのか、あれはちょっと分かりませんでした。
2011-01-03 00:47:29決断というのは、どちらも等しく妥当性があるときに、敢えてどちらかを選ぶ非理性的な行為だと思います。キルケゴールが、決断の瞬間というのは狂気の瞬間だと言ってますが、そういうものです。
2011-01-03 00:48:25スピノザが『知性改善論』の冒頭で「決断」してますけど、ああいうのは本当に決断です。俺はもう、名誉欲、金銭欲、性欲からは自由になって、永遠不変の善を探求する。決めた。絶対そうする。そういう決断です。
2011-01-03 00:49:59まえにブログでも書いたんだけど、スピノザはそうやって決断しても失敗する。しかも二度も失敗するんですよ。(ブログの記事はこちらhttp://ameblo.jp/philosophysells/entry-10737690120.html)
2011-01-03 00:51:07『ゼロ想』では、『野ブタ。』の修二も決断主義者として書かれています。俺はこれは見たことがないので知らない。
2011-01-03 00:52:59繰り返しますけど、宇野さんが言っていることには全然疑問はないんですね。でも、「決断主義」という言葉がなんか読んでいるときに浮いて見えました。
2011-01-03 00:53:31決断主義というのはもっと深刻な(「深刻」というのは全然いい意味じゃない)ものじゃないかと思うんですね。『野ブタ。』は見てないけど、その説明を読んでいる限りでも、そういう決断主義的な深刻さは感じない。
2011-01-03 00:54:25だから、「決断主義」じゃない、別の言葉の方がよかったんじゃないかなぁと思いました。『ゼロ想』で描かれている決断主義者たちの態度というのは、「それを選択してもいいし、選択しなくてもいいし」という任意性を感じさせる。でも、そういう任意性をかなぐり捨るのが決断という行為じゃないか。
2011-01-03 00:56:13スピノザだって、金銭欲、名誉欲、性欲におぼれてもいいし、絶対的な善を探求してもいいし、どっちてもいいけど、後者を選び、そして前者の可能性をかなぐり捨てるわけですね。
2011-01-03 00:56:53決断というとハイデッガーを思い出すけど、ハイデッガーのいう決断の方が安全な気がする。なんか、俺には何もないぜ、だから何でも出来るぜ、っていうなんか将来に迷って飲み会ばっかやってる大学二年生的な安易さを感じる。
2011-01-03 00:58:15デカルトもそうだけど、スピノザの場合は、俺はいまここで決断しないと非理性に陥るかもしれないという恐れがある。ハイデッガーにはそういう恐れを感じない。無か決断か、みたいな。
2011-01-03 00:58:58因みに、デカルト、スピノザと決断の問題を論じているのは、フーコーの『狂気の歴史』(邦訳は新潮社)です。フーコーのこの著作は全然論じられてない。あそこでスピノザの話が出てくることを、いったい世界で何人が知っているのか。
2011-01-03 01:00:23十七世紀の哲学は非理性と理性の狭間で、もう決断しなければ俺は非理性に陥るという恐れのなかで実践されているというのがフーコーの言うところ。
2011-01-03 01:01:09対し、十九世紀になるとそういう恐れはなくなるとフーコーは言います。まぁ、確かにそうでしょうね。
2011-01-03 01:01:32でも、非理性と理性の狭間で生きているって、それが普通ですよ。だって、落ち込んで何もできなくなったり、「ふざけんなよ」って思って酒飲みまくったり、そういうことみんなしてるでしょ。十七世紀的にはそれは全部、「非理性」なんです。
2011-01-03 01:02:41俺等は、十九世紀以降の「理性」「理性的」、分かりやすく言うと「大人」のイメージにとらわれているから、飲んだくれたり、落ち込んだり、イライラしたり、人にあたったり、気晴らしで買い物しまくったりすることは本来の理性的な大人がすることじゃないって思っているだけ。
2011-01-03 01:04:04