「カルト」の構造分析

かつて知り合った、「カルト的」団体に所属していたYさんへの最初で最後の手紙。 ライターの丸山桜奈氏とのやりとりもあります。
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倉沢 繭樹 @mayuqix

はじめに  僕は以前「『愛のむきだし』と洗脳、あるいはカルト」(togetter.com/li/565875)というトゥギャッターまとめで、心理学の講座で知り合ったYさんのことを書いた。彼女は「オルターカレッジ」という学校の生徒だった。その学校は「カルト的」な団体が母体で、

2015-08-06 21:42:02
倉沢 繭樹 @mayuqix

僕は彼女を脱退させようとして「カルトの構造」を分析した文章を書いて、手渡した。  しかし、彼女は脱退せず、僕の前から去って行った。  その文章を書いたのは、2004年だ。もう10年以上前になる。時間も経たことだし、それを公開したいと思う。

2015-08-06 21:45:25
倉沢 繭樹 @mayuqix

いわゆる「スピリチュアル的なもの」を愛好する人たちを見ていて思うのは、彼らが「スピリチュアル的なもの」「自己啓発的なもの」の歴史や思想史に、あまり関心を払っていないのでは、ということだ。それを知らないで「スピリチュアル系」でいることの「能天気さ」を感じてしまう。

2015-08-06 21:46:36
倉沢 繭樹 @mayuqix

「スピリチュアル的なもの」は、一部ではあるだろうが、カルト化する危険を伴っている。そうしたカルト化した「スピリチュアル」に接触したとき、その歴史を知っておくことは重要な「免疫」にならないだろうか。  また、「スピリチュアル系」の人たちに共通している感性として、

2015-08-06 21:47:52
倉沢 繭樹 @mayuqix

機能分析を忌避するという傾向があるような気がする。自分たちが所属している団体・会やそのリーダーの「教え」等が、どういう機能を担っているかを分析されることに抵抗を感じるらしい。たとえば、「スピリチュアル的なもの」が主体を安定させ、他の仲間たちとの一体感を促進する、

2015-08-06 21:48:59
倉沢 繭樹 @mayuqix

といった分析があるとして、それを「世界の構造化」という視点で考えるなら、虚無主義であっても同じ機能を果たす。そうした分析が、自分たちの親しんでいる「スピリチュアル的なもの」を矮小化するように感じて、忌避するのだろうか。

2015-08-06 21:49:43
倉沢 繭樹 @mayuqix

しかし、そうした機能分析によって、「スピリチュアル的なもの」が抱えるマイナス要素を剔抉することができるという可能性については考えないのだろうか。  現在の「スピリチュアル的なもの」と「スピリチュアル系」について考えるとき、何かのヒントにならないだろうか、という思いも込めている。

2015-08-06 21:50:34
倉沢 繭樹 @mayuqix

Yさんへの手紙  これが最初で最後の手紙になるかもしれません。なぜかと言えば、これを読んであなたは激怒するかもしれないし、また落胆するかもしれない。どちらにしても、あまりいい印象は持たないにちがいないからです。にもかかわらず、あえて私は書きます。

2015-08-06 21:53:40
倉沢 繭樹 @mayuqix

私は自分に「誠実」でありたいと思います。自分の意思通りの言動を心がけたい。というわけで、感想は求めません。  さて、テーマは「愛」「知識」、そして「私が考える『オルターカレッジの教え』の構造」です。

2015-08-06 21:55:11
倉沢 繭樹 @mayuqix

私たちはおそらく、永遠にコミュニケーションし続けられる問題(テーマ)をいくつか持っている。「人間」とは何か? 「死」とは何か? そして「愛」とは何か?  「愛」は12世紀頃の南欧で生まれた観念だとされている。私たちが「愛」と呼ぶものの中味は、

2015-08-06 21:56:56
倉沢 繭樹 @mayuqix

多分に宗教、政治、経済的な生成物の織物である。だから「愛」の内実は多様だ。  神への愛、真理への愛、自然への愛、法への愛、博愛、隣人愛、愛国心、民族愛、家族愛、兄弟愛、同胞愛、自己愛、他者愛、精神的な愛、物質的な愛、人間的な愛、動物的な愛、観念的な愛、肉体的な愛、等々。

2015-08-06 21:58:10
倉沢 繭樹 @mayuqix

アリストテレスの思考の二本柱は倫理学と政治学で、前者は「友愛(フィリア)」を、後者は「最高善」としてのポリス的献身を基礎づける。たとえば戦争が起こったとき、親しき者のために戦うよりは、戦争を避けて親しき者と逃げる方が合理的な選択である。

2015-08-06 21:59:06
倉沢 繭樹 @mayuqix

そこで彼は、人間を「ゾーオン・ポリティコン(ポリス的動物)」だと規定し、友愛(フィリア)を上回る最高善としてポリスへの一体化による献身を称揚した。ギリシア時代には既に、血縁的な自然共同体を越える大規模社会の秩序が自明ではなくなっていたので、それに対処するための方策だったのだろう。

2015-08-06 21:59:46
倉沢 繭樹 @mayuqix

さて、では実際に戦争が起こったとき、故郷(くに)を捨てて親しき者と逃げるという選択を、私たちは絶対にすると言えるだろうか? ここでは郷土愛と友愛は両立しない。また、たとえば宗教的信条に従って非暴力を貫く者が徴兵された場合、彼は神への愛と愛国心、どちらを取るのだろうか?

2015-08-06 22:00:26
倉沢 繭樹 @mayuqix

これを「愛」の内部対立・抗争と呼ぶならば、唯一絶対の神や真理を信じるからこそ為す異端者の虐殺、異教徒との戦争は、「愛」の外部対立・抗争であろう。このような意味で「愛」は矛盾を孕む。

2015-08-06 22:01:00
倉沢 繭樹 @mayuqix

何らかの「現実」を「体験」することと、その「現実」が「ある」こととは別である。デッファン夫人は言った。私は幽霊を信じません、でも幽霊が怖い、と。「体験」を解釈して意味づけることを「体験加工」と言う。

2015-08-06 22:01:46
倉沢 繭樹 @mayuqix

「体験加工」の機能は、「体験」を日常生活を支えるセマンティクス(意味論)(※1)へと回収することだ。そこで、信じないことにした幽霊が実は存在するのでは、とおびえるというメタ視点もありえる。  では、「体験」を解釈する際に参照されるもの、準拠されるものとは何なのか。

2015-08-06 22:03:03
倉沢 繭樹 @mayuqix

歴史的事実、物理的現象の法則・規則性、生命のしくみなどを記号化したまとまりを指して「狭義の知識」と呼ぶとすれば、世界を分節化して記号化するまでのプロセスにおいて働く変換作用をも包含する範囲領域を「広義の知識」と名づけたい。

2015-08-06 22:04:18
倉沢 繭樹 @mayuqix

その変換作用は分節‐記号化過程でその都度立ち現われてくる力で、そのとき「広義の知識」は自らそれ自身を支える力動的な「場」である。さて、「体験」を意味づけるものは、先行する意味づけられた「体験」の束としての記憶と、この「広義の知識」ではないだろうか。

2015-08-06 22:04:59
倉沢 繭樹 @mayuqix

「広義の知識」は言語習得過程とも関連していると思われる。こういった意味で、私たちは「(広義の)知識」なしでは、語ることも書くこともできず、自分の「体験」が何なのかすら判断できないだろう。しかし、これでは「知識」を拡大解釈しすぎなのかもしれない。

2015-08-06 22:05:39
倉沢 繭樹 @mayuqix

だが、「知識」は私たちの活動の基盤のひとつではあるし、教科書的な「知識」だけがそう呼ばれてよいとは思わない。

2015-08-06 22:06:06
倉沢 繭樹 @mayuqix

「オッカムの剃刀」と呼ばれる規約がある。またの名を倹約則といい、事実に適する諸仮定のうち、最も簡単なものをベストとする規約である。ベイトソンは、この規約を前提としたときに生じる「勘違い」を、次のような簡単な数列を使って例示した。

2015-08-06 22:06:49
倉沢 繭樹 @mayuqix

2、4、6、8、10、12

2015-08-06 22:07:15
倉沢 繭樹 @mayuqix

この数列で次に来る数は、「14」ではない。答えは「27」である。最初の6例だけから得たデータに基づいて、これが偶数の数列だという一般化を行ってしまうわけだが、この数列をもっと長く伸ばしていくと、その誤りが判明する。

2015-08-06 22:07:48
倉沢 繭樹 @mayuqix

2、4、6、8、10、12、27、2、4、6、8、10、12、27、2、4、6、8、10、12、27

2015-08-06 22:08:19
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