雑誌『自由』の発刊経緯とCCF
"1957、8年頃、C・C・Fから私のところに世界各国で出している雑誌、「エンカウンター」(英)、「デア・モナト」(独)、「ブルーブ」(仏)、「フォールム」(墺)、「クェスト」(印)、「チャイナ・クォータリ」(英)などと提携出来る雑誌を、日本で発行出来るかどうかを問合せてきた。"
2015-09-08 23:19:02"私としては『日本文化フォーラム』で発行するのが一番良いと思ったが、一般から機関誌視されるおそれもあり、また執筆陣の幅も狭くなるとの意見もあったので、別組織をつくり編集代表を竹山道雄氏にお願いすべく交渉した。"
2015-09-08 23:22:11"幾たびかの交渉のなかで、「編集委員会」制をとるならという提案が出されたので、竹山氏を中心に委員として木村健康、林健太郎、関嘉彦、平林たい子、別宮貞雄、河北倫明(のちに福田恆存、西尾幹二)の各氏に承諾願って発足した。"
2015-09-08 23:22:39"誌名『自由』は他に『フォーラム』をはじめ、幾つかの提案があったが、最終的には、笠信太郎氏の意見もあり『自由』に決った。そして、四号目から発行所として「自由社」を設立したのである。"
2015-09-08 23:23:07"『自由』の創刊の辞は、竹山道雄氏の筆になる。 「・・・・・・立場として守りたいのは、正しい事実の認識の上にたつ、正しい論理の追求である。真理の基準は、教義への適合ではなくて、事実と合致していることなのだから、事実と論理への誠意さえあれば、"
2015-09-08 23:25:03"たとえどんなに立場がちがっていても、すべての人が話し合うことができるはずである。・・・・・もし他日になってふたたび社会の状勢が変って、万一にも、この立場を棄てて、ある特定の教義を強いられるようなことがあっても、"
2015-09-08 23:25:29で、竹山は1960年のCCFベルリン会議に出席するのである。 polanyi.hatenablog.com/entry/20120129…
2015-09-08 23:26:35以下、西尾幹二。 " 『自由』を主導したメンバーが日本文化会議を創立し、その機関誌を文藝春秋から出す計画がありました。最終的には、機関誌ではなく、普通の雑誌スタイルにしたいとの社側の意向があって、月刊誌『諸君!』が発刊されました。"
2015-09-08 23:27:37"『自由』を主導したメンバーは自由主義の立場を唱えるより自由な発言の場をさらに求め、産経新聞のコラム「正論」が立ち上げられました。"
2015-09-08 23:28:12"新聞のコラムを月刊誌に再録したいという要望があって、雑誌『正論』が誕生しました。『正論』はむかし永い間コラム「正論」の記事を収録していたのを覚えている人は少なくないでしょう。 自由社の『自由』は『諸君!』『正論』の母胎なのです。"
2015-09-08 23:28:31"社会学者ハーバート・パッシンは・・・学界のみならず政財界も網羅するその幅広 い活動にもかかわらず、あるいはそれゆえに、謎の多い人物でもある。"
2015-09-08 23:36:26"パッシンは・・・フォード財団のコンサルタントも務め、同財団が支援した反共主義的国際団体「文化自由会議」(Congress for Cultural Freedom:1950 年設立)の日本担当でもあった。"
2015-09-08 23:36:39"パッシンと石原は、フォード財団の資金援助を受けながら反共社会民主主義に近い知識人を巻き込み 1956年に「文化的自由」の促進を目的として「日本文化フォーラム」を立ち上げ、59年に雑誌『自由』を刊行した。"
2015-09-08 23:37:58帝国日本のアジア研究――総力戦体制・経済リアリズム・民主社会主義 辛島理人 amazon.co.jp/dp/4750341282/…
2015-09-08 23:40:16戦後日本の社会科学とアメリカのフィランソロピー 辛島理人 http://202.231.40.34/jpub/pdf/js/IN4505.pdf
2015-09-08 23:40:46"文化自由会議は、「人間の創造的かつ批判的な精神を侵害するあらゆるものに抗して、知的自由」を防衛する「世界的規模の独立系組織」と名乗っていたが、その性格はCIAから援助を受けた反共団体であった。"
2015-09-08 23:45:17どうもこの本の中の、 amazon.co.jp/Towards-New-Pa… Lasch Christopherの論文をベースにCCFを理解しているようだ。
2015-09-08 23:54:13