とある学びの成長モデルに就いて
- gervillaria
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覚えることを主眼とした初学者と、新たな発見に邁進する専門家の間の領域の層の薄さというものが普遍的に見られる件について、考察を進めている。先日そこにはフィロソフィーに突っ込んだ思索こそが重要であるという結論を暫定解として得たわけだが、これをもっと掘り下げる機会があった。
2015-09-08 22:35:42@gervillaria 結果、その思索を深めるステージをより具体化し、さらにその進捗度合いすら可視化する手段として、「成果を形にして世に(人に)問う」という方法が適当ではないかとの暫定解に達した。つまり、「学ぶ→作る→極める」というステップアップである。
2015-09-08 22:39:20@gervillaria 科学でもなんでも、人の成果物を見たり、人の説明を記憶したりすることは、確かに個々の分野へと入って行くその階であるが、そこから先にステップアップしなければ、その得た学びを能動的に利活用することができない。得た学びを自家薬籠中のものとするには足りない。
2015-09-08 22:42:23@gervillaria そこに必要なのは、膾炙と整理であり、更により知識と考察を奥へ奥へと進めて行くモチベーションを自身の内部に構築することであって、そこには「挑戦の葛藤」を経た「達成の快感」の経験とその成功フローの獲得が必要である。
2015-09-08 22:46:14@gervillaria そこに達するためには「フィロソフィー」など所詮は振り返っては決めて気づく類のものであって、本質ではないことになる。むしろ何かを作るという行為の中で得た成功フローこそがフィロソフィーを後天的に生み出しているにすぎない。
2015-09-08 22:48:35@gervillaria ツイッターによってより可視化が進んだ人間の内面世界を通観してゆくと、世に「初学者」と「エキスパート」は多かれど、それら結果として存在するプロダクツの背景たる、初学者からエキスパートへと至る過程は見えない。
2015-09-08 22:55:03@gervillaria ある人は「普段の不断の努力」という。ある人は「周囲に優れた人たちに恵まれた環境」だという。しかし、それらの本質、そのようなシステムの持つ機能について思いを巡らすと、エキスパートの出現は個人の環境と性に由来する個人に帰属されるなんらかの要素でしかない。
2015-09-08 22:57:47@gervillaria 幾ら聴講しようと、幾らワークショップを経験しようと、初学者は受け身である限り永遠に初学者のままである。「学び」を前提とするシステムを実装した組織において初学者を初学者からステップアップする機能が実装されていないということは、人材の再生産の機能欠如である。
2015-09-08 23:00:06@gervillaria ぼくならそれは《理解の更新》と定義しますね。 不断の努力とか、環境とかは、《理解の更新》を発生させるトリガーの頻度でしか無いと思います。
2015-09-08 23:00:09@gervillaria では、初学者をエキスパートへとステップアップさせる、つまり中級者育成には何が外部的に用意できるか。エキスパート育成の教育を個人の性だけに帰属させた偶然頼み、人狩りに貶めないためには何が必要か、このことについてちょっと考えてみた次第。
2015-09-08 23:01:58はい、その言い換えはとても分かりやすいものかと思います。 RT @JesusKillist: @gervillaria ぼくならそれは《理解の更新》と定義しますね。 不断の努力とか、環境とかは、《理解の更新》を発生させるトリガーの頻度でしか無いと思います。
2015-09-08 23:03:00@gervillaria では、@JesusKillist さんの仰る持続可能な《理解の更新》を担保する仕組みとは何か、それについての暫定解として表明するのが、「成果を形にして問う」にあたると考える次第です。そして、その問う相手が担保されることこそ、中級者を育成する環境であると。
2015-09-08 23:05:54では、トリガーがあれば理解の更新は発生するかというと、それはそうとは限ら無いだろうな。 まず『理解は更新され得る、という理解の更新をする』必要がある。 これはすなわち、『誤りは修正する事が可能だ』と知る事。
2015-09-08 23:07:27@gervillaria 考えてみれば、学位論文やレポートなど、成果を形にして問う、という教育システムは学問分野では日常的に行われているセオリーの一つであります。ところが、出しておしまいとなるケースが多く、成果物をベースにして議論する機会にはその形骸化故に恵まれないことが多い。
2015-09-08 23:09:09多分それは、運に依存する。 すなわち、明確に誤りであると自覚可能な誤りを行うこと。 次にそれを修正する機会を得ること。 それらが、充分に自我があり、かつ、充分に謙虚である時期に起きる事。
2015-09-08 23:10:50@gervillaria 成果物を適切に評価検討する機会を得るには、発表者<審査者の比が必要であると考える。そして、これは既存の社会システムの中での実装が難しい。なぜなら人数という明瞭な評価軸が重視されがちである昨今、プライベートの場でもない限り発表者>審査者とならざるを得ない。
2015-09-08 23:13:02これをクリアすれば、その人は理解の更新が可能になる。 起動時にオンラインアップデート可能なアプリケーションみたいなもん。 ランチャーが更新情報を取得するように。
2015-09-08 23:13:40@gervillaria エキスパートの再生産ができない社会に持続可能性はない。ここにコストパフォーマンスとのジレンマがあるように思う。
2015-09-08 23:15:07次に理解の更新を行う頻度であるが、これはその行為の心理的障壁の低さに依存する。 この障壁は、機会の多さ(慣れ)、更新に伴う利益の自覚、更新に伴う不利益の少なさと、そうした過去の更新に対する自己評価に由来する。
2015-09-08 23:21:28@gervillaria 発表者自身による評価検討や、異なる発表者による評価検討も、効率が劣るだけで、機能は果たす認識です。 アカデミックな場では、相互にレビューする文化はありませんか?
2015-09-08 23:25:38@gervillaria あー、すみません。そこはものの例えで、肝はアップデートの仕組みがあるかどうかです。 その例えでの、どのように更新するかは、別の話と思います。 もしその例えで続けるなら、必要なのは『更新対象バッチの提供元を(証明書などで)信頼可能かどうか』と思います。
2015-09-08 23:34:30