日本人が増えすぎた人口をエド・シティに送るようになって既に1世紀

主に速水先生の都市アリジゴク論について
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Yuichi Goza @goza_u1

右も左も「江戸時代に帰ろう」と言う人多いですね。当時の人は主観的に幸せだったかもしれないけど、私は嫌です。→【再掲】内田樹「江戸時代は偉かった…Back to Edo era! 」への賛否togetter.com/li/684110 twitter.com/aniotahosyu/st…

2015-05-07 12:16:29
古谷経衡(作家・評論家,新刊3/8『シニア右翼-日本の中高年はなぜ右傾化するのか』中央公論新社) @aniotahosyu

宝永の大噴火の後も、江戸時代の日本人はどっこい幸せに生きていたんで何も心配することなし。原発事故のほうが余程怖い。

2015-05-06 11:38:57
まとめ管理人 @1059kanri

まったくです。当時として良い社会だったとしても、それが現代的な意味で良い社会になるわけがないですから。 twitter.com/goza_u1/status…

2015-05-07 20:19:38
儀狄@パブリックエネミー @giteki

@1059kanri @goza_u1 戸時代に返ろうとか言う人は全員、都市のアリジゴク(by速水融先生)に落ちてしまえば良いんだ

2015-05-07 20:21:44
まとめ管理人 @1059kanri

@giteki @goza_u1 江戸時代の江戸は、人口過密もあって衛生状態は相当悪かったらしいですね。それだけでも現代人は生活できないでしょうw

2015-05-07 20:28:04
儀狄@パブリックエネミー @giteki

@1059kanri 江戸時代の出生率は農村で高く最低なのが三大都市で、つまり以前ガンダムのパロディでやりましたが江戸時代というのは本当に「日本人が増えすぎた人口をエド・シティに送るようになって○年」の世界なんですよ

2015-05-07 20:30:59
めめんと・頓服 @alchmistonpuku

江戸時代の北日本はかなり悲惨だったので、江戸時代に良かったとこって相当な都会&金持ちのとこしかないんじゃね?っていつも思うんですよ。

2015-05-07 20:43:09
儀狄@パブリックエネミー @giteki

この手の話題をする人も多いんだけど、江戸時代に……何をもって「良かった」とするかはまた人それぞれだけど、江戸時代に「仕事があって収入があって結婚して子孫残す」が安定して続けられたのは都市部じゃなくて地方の豪農の方だよ>RT

2015-05-07 20:57:59
儀狄@パブリックエネミー @giteki

図書館で速水先生の本を借りてきたので前からやろうと思っていたこのネタをやろう #都市アリジゴク

2015-09-22 22:34:51
儀狄@パブリックエネミー @giteki

享保6年、徳川吉宗の時以降、江戸幕府は日本全国を国(←後ろの国は律令の国ね)ごとに区切って人口調査を始めました。が皮肉にも、この調査を始めた頃には人口の伸びは止まりました #都市アリジゴク

2015-09-22 22:41:00
儀狄@パブリックエネミー @giteki

享保6年(1721)の後は子年と午年の6年ごとに調査が行われ1846年まで続きます。この調査によると、日本の人口は1721年に2607万人、1846年に2691万人。人口の最大は文政11年(1828)で2720万人、最低が寛政4年(1792)で2489万人でした #都市アリジゴク

2015-09-22 22:45:28
儀狄@パブリックエネミー @giteki

この調査は武士および僧侶などの人口が含まれておらず、また一定年齢以下は含まないしその『一定年齢』の基準が藩によってまちまちであるという問題はありますがその点を割り引けば一つの目安にはなります。 #都市アリジゴク

2015-09-22 22:47:43
儀狄@パブリックエネミー @giteki

前出の数字に戻って。江戸時代の日本の人口は2700万+αで頭打ちになっていたように見えますが、日本全国の人口が一律に頭打ちになっていたわけではありません。国ごとの統計を見ると伸びている国・伸びていない国があります #都市アリジゴク

2015-09-22 22:51:50
儀狄@パブリックエネミー @giteki

江戸時代後半の1721~1846年の間で、人口が20%以上伸びていたのは中国・四国地方の各国と肥後、日向、薩摩、大隅の南九州。10%台の伸びを示していたのは甲信と北陸、および伊豆から尾張、美濃、飛騨にかけて、10%未満の伸びだったのが北九州と出羽でした #都市アリジゴク

2015-09-22 22:58:12
儀狄@パブリックエネミー @giteki

逆に、人口が10%以上減少していたのは五畿、北関東、東北の太平洋側(要するに広く取るほうの陸奥)各国、10%未満の人口減少だったのは武蔵、相模、上総、下総、安房、近江、伊賀、伊勢、紀伊、淡路、丹波、播磨の各国でした #都市アリジゴク

2015-09-22 23:01:00
儀狄@パブリックエネミー @giteki

つまり、陸奥は別の要因(冷害?)があったとしても。経済先進地の江戸・大坂・京都の周辺は軒並み人口が減少していたということになります #都市アリジゴク

2015-09-22 23:04:30
儀狄@パブリックエネミー @giteki

よく考えてみると不思議なことではありません。前近代において人が密集して都市に住んでいると、戦災(日本では無かったですが)、流行病、飢饉などに非常に弱い状態になります。『経済先進地』はその経済力で人を引きつけて死なせていくアリジゴクだったわけです #都市アリジゴク

2015-09-22 23:07:47
儀狄@パブリックエネミー @giteki

日本のこの現象を『都市アリジゴク現象』と名づけたのは速水融先生ですが、これは日本に限らず欧州においても『都市墓場説』として似たような現象が見られるそうです #都市アリジゴク

2015-09-22 23:10:34
儀狄@パブリックエネミー @giteki

さて、ここでミクロの単位で江戸の人々の移動を見ますと。速水先生が中心となって調査されたのは西条村という、濃尾地方の一村です。幸いにして宗門改帳が充実しているため、江戸時代後期の人の移動がかなり掴めるそうです #都市アリジゴク

2015-09-22 23:20:06
儀狄@パブリックエネミー @giteki

先に結婚による移動から行きましょう。何だかんだ言っても結婚での移動は女子に多いです(男子が婿に行って移動することもありますが、女子が嫁に行って移動することの方が多い)。嫁に行った先の村の宗門改帳が残っていないとその先は追えないのですが。 #都市アリジゴク

2015-09-22 23:28:40
儀狄@パブリックエネミー @giteki

1773年から幕末にかけ、西条村では222組の夫婦が誕生し、46組が村内の男女での結婚。176件が他村から嫁・婿に来た夫婦でした。村内結婚を繰り返すと近親婚が増えますし、地理的に隔絶された土地というわけでもないのでこんなものでしょう #都市アリジゴク

2015-09-22 23:31:06
儀狄@パブリックエネミー @giteki

そして、この村での平均初婚年齢(※生涯結婚しなかった者は除かれるが、江戸時代には稀)は男性が28.2歳、女子は22.1歳です。意外と(?)遅いですがこれを階層別に調べると一つのことが分かります #都市アリジゴク

2015-09-22 23:37:54
儀狄@パブリックエネミー @giteki

男の平均結婚年齢は地主層から小作層まで20代後半ですが、小さな村なので特に地主層には偏りがあるかもしれません。一方、女子は地主層だと19.4歳、自作層だと23.2歳、小作層だと23.5歳と、収入の少ない層ほど結婚が遅くなる傾向が見られます #都市アリジゴク

2015-09-22 23:41:23
儀狄@パブリックエネミー @giteki

『他所に奉公に行った経験があるか』で分析するともっと明確になります。当然の帰結ながら、地主層では奉公の経験がある女子は4人に対し経験の無い女子は26人。一方で小作層では奉公の経験のある女子が62人に対し経験の無い女子は22人です #都市アリジゴク

2015-09-22 23:45:13
儀狄@パブリックエネミー @giteki

出身階層を問わず、奉公に行ったことのある女子の平均結婚年齢は25.9歳、対して奉公の経験の無い女子の平均結婚年齢は21.5歳です。つまり、奉公に行くと婚期が遅れます。言うまでもありませんが、とはいえ小作層では出さないわけにもいかない状況だったのでしょう #都市アリジゴク

2015-09-22 23:47:25
儀狄@パブリックエネミー @giteki

妻が早く結婚した場合、子どもを産む人数は増えます。16歳で結婚した女性は平均で7.35人の子どもを産み、20歳だと6.22人、25歳だと4.62人と緩やかに下がっていって35歳で結婚した妻は平均で1.87人の子どもを生涯で産みます #都市アリジゴク

2015-09-22 23:50:06