「ナポレオン3世」と「フランス第二帝政」に関する再評価について。

「フランス皇帝の意向を伺わなければ、ヨーロッパでは誰も行動を起こそうとしない。」by大英帝国宰相パーマストン子爵。 1860年の「ナポレオン3世」・「フランス第二帝政」の全盛期を評して述べた言葉。
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久経 @hisatune3

まあ日本国内において「ナポレオン3世」や「フランス第二帝政」に対する評価は物凄く低い。ヴィクトル・ユゴーやカール・マルクスの批評を引用して手厳しく批評される様に残念ながら「最終的には敗者となってしまった人物」である。

2015-09-25 10:02:53
久経 @hisatune3

ナポレオン3世こと、ルイ・ナポレオンはナポレオン・ボナパルトの「フランス第一帝政」の後期に生まれる。その時の逸話としてナポレオン・ボナパルトがルイ・ナポレオンを賞賛するエピソードがあるのだが、「怪帝ナポレオン三世 第二帝政全史」の著者である鹿島茂もこれには否定的な見解である(w

2015-09-25 10:06:15
久経 @hisatune3

ナポレオン・ボナパルトが世界史と戦史における「ワーテルローの戦い」において、英国のウェリントン公爵の指揮下の英蘭連合軍とブリュッヘルの指揮するプロイセン軍に破滅的な大敗北を最終的には喫する。これ以降、ナポレオン1世は大西洋の孤島に島流しにされ、ボナパルト家は潰えるかに見えた。

2015-09-25 10:11:54
久経 @hisatune3

「フランス第一帝政」・「フランス帝国」の崩壊以降、ナポレオン家の王族一族は欧州各国へと政治的亡命を余儀なくされる者達が出る。当時のルイ・ナポレオンもスイスや各勢力が群雄割拠するイタリア半島、そして大英帝国やアメリカ合衆国などにも流転する事にもなる。

2015-09-25 10:14:19
久経 @hisatune3

ルイ・ナポレオンはこれは私自身の推論ではあるが、「漁色家」と言うよりも「セックス依存症」だったのではないか?と、私自身はそう推論している。あの異常なまでの性欲に取り付かれた衝動はどう見ても「セックス依存症」の可能性がある。

2015-09-25 10:18:01
久経 @hisatune3

フランス第一帝政崩壊以降のフランスではブルボン家の分家とも言えるオレルアン朝がフランス王国とフランス王家として王政復古し、フランス国家とフランス人に対して君臨し統治する。

2015-09-25 10:16:05
久経 @hisatune3

ルイ・ナポレオンはまずはフランス国内への入国は原則、不可能なのでスイスやドイツなどで幼少期を過ごす事となる。その時に癖として憶えてしまった周囲にも聞き辛い「ドイツ語訛りのフランス語」があるものの、一通りの言語は出来たらしい。

2015-09-25 10:20:19
久経 @hisatune3

両親が雇った家庭教師のスパルタ教育でも、当の本人もサボり癖はあったものの、基本的には成績は悪くは無かった様だ。

2015-09-25 10:21:12
久経 @hisatune3

ルイ・ナポレオンは叔父であるナポレオン・ボナパルトの「軍隊によるクーデター」に何度も執拗に固執し、幾度もフランス国内にてクーデターを起こすべく、叛乱を画策する。

2015-09-25 10:22:42
久経 @hisatune3

1度目のフランス軍を利用したクーデター計画は無残にも大失敗に終わる。たちまち短時間の内にルイ・ナポレオンと側近であるボナパルティスト達は捕らえられるか、這々の体で脱出する羽目になる。

2015-09-25 10:24:30
久経 @hisatune3

さらに青年期においてはイタリア半島において、「イタリア統一運動」などに接触し、その思想的影響を受ける。イタリア王国の建国をした大政治家カブールによるハニートラップに引っ掛かったのもあるものの、基本的に「イタリア統一運動」を全面的にバックアップした理由は青年期の影響でしょう。

2015-09-25 10:27:00
久経 @hisatune3

人格形成の時期に該当する「青年期」に受けた思想的影響力は良くも悪くも大きいですからね。それが如何なるイデオロギーであったとしても。

2015-09-25 10:28:07
久経 @hisatune3

1度目のクーデター計画の大失敗の後、ルイ・ナポレオンは大英帝国の帝都ロンドンや、アメリカ合衆国のニューヨークなどへも「政治的亡命」や「流浪の放浪の旅」に出ます。母親の遺産も相変わらずの漁色家ぶりと放蕩でたった数年間で亡き母の遺産をも食い潰します。

2015-09-25 10:30:58
久経 @hisatune3

2度目のフランス国内でのフランス軍を利用したクーデター計画・叛乱もあまりにも希望的観測と楽観主義の為、またもや大失敗に終わります。さらにはルイ・ナポレオンはフランス国内の要塞である「アム要塞」へと「終身刑」で独房へと入れられてしまいます。

2015-09-25 10:33:07
久経 @hisatune3

2度目のフランスでのクーデターの大失敗は悲惨極まる大失態でした。フランス国内の新聞社・報道機関も、外国の報道機関もこぞってこの「大失態」を侮蔑と嘲笑で批評します。

2015-09-25 10:40:16
久経 @hisatune3

2度目のクーデター計画の大失敗と叛乱の杜撰極まりない計画の大失敗をルイ・ナポレオンはきちんと省みます。「次は絶対に選挙戦に出馬し、フランス共和国大統領になる」決意を新たにします。さらに後にナポレオン3世となってフランス第二帝政と後のフランスの大国化に寄与するある書物に出会います。

2015-09-25 10:35:23
久経 @hisatune3

それはサン・シモンなどによる「サン・シモン主義」の書物であります。そこには「経済政策の必要性」や「金融政策の必要性」、さらには「近代化政策」や「産業の振興」などが描かれておりました。ルイ・ナポレオンはこれらの書物に深い感銘を受けてその著書「貧困の根絶」を執筆します。

2015-09-25 10:38:47
久経 @hisatune3

そんな中、ルイ・ナポレオンは「終身刑」の身でありながら、「アム要塞」にて独学ではありますが、「経済学」・「経済政策」・「金融」・「金融政策」・「計画都市」・「行政」・「内政」・「産業化」・「近代化」・「鉄道」などについて頑張って彼は独学で勉強し、遂にはマスターしてしまいます。

2015-09-25 10:42:58
久経 @hisatune3

ルイ・ナポレオンは後に「ナポレオン3世」となったフランス第二帝政においても「私は『アム大学』にて修了したのである」と、そう述べるほどになります。

2015-09-25 10:44:10
久経 @hisatune3

さて、ブルボン・オルレアン家のフランス王であるルイ・フィリップから本来ならば「死刑」だったのですが、あまりにも稚拙なクーデター計画だったので彼は安堵し、「終身刑」としてしまいます。本来ならば「国家反逆罪」などで「死刑」となるべき裁判所でも侮蔑的な空気もあり「終身刑」となりました。

2015-09-25 10:47:42
久経 @hisatune3

アム要塞におけるルイ・ナポレオンはかなり自由裁量が公認され、「独房」や「本棚」、「書物の搬入」や「読書」、さらには庭などの手入れや部下や側近のボナパルティスト達の部屋の改装等もかなりの自由裁量を得られていました。

2015-09-25 10:49:57
久経 @hisatune3

ルイ・ナポレオンは一計を考えます。タテマエとしての表向きの理由は「庭や小屋などの増築」ではありますが、それらを増築する職人達の衣服を着て、さらにはきちんと変装までした上で「アム要塞からの大脱走」を企てます。

2015-09-25 10:52:04
久経 @hisatune3

結果はアム要塞における歩哨の前で危うい場面もあったものの、見事、ルイ・ナポレオンはこの「大脱走」に大成功します。ルイ・ナポレオンは大急ぎで国外への政治的亡命を実行します。

2015-09-25 10:53:23
久経 @hisatune3

大英帝国の首都ロンドンにて亡命生活を送りつつ、英国の社交界にもデビューします。ですがルイ・ナポレオンと側近達に急報を知らせるニュースが飛び込みます。それは「フランス2月革命」の勃発」と「フランス国王ルイ・フィリップのイギリスへの政治的亡命」であります。

2015-09-25 10:57:41
久経 @hisatune3

分家とはいえども「ブルボン・オルレアン家の滅亡」・「オルレアン朝の滅亡」に関して「帝政復古」・「ナポレオン王家の再興」を夢見るボナパルティスト達は狂喜乱舞します。「今すぐ帰国し、ルイ・ナポレオンはフランスの選挙戦に出馬すべきだ!」と、・・・・・。

2015-09-25 11:01:41
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