医療や科学技術の研究倫理と医者・患者の力関係の圧倒的非対称性について
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●spitzibara氏のブログ【海やアシュリーのいる風景】:
★「 ワクチン未接種の子どもの入学拒否、裁判所が認める(米) 2014/7/26(土) 午後 10:09 」
● 以下 ↓ は、上記spitzibara氏のブログ記事のコメント欄でのやり取り(コメ欄の末尾)
(spitzibara氏とhijijikikiの投稿のみ抜粋しました。URLは後で追加)。
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@hijijikikiの投稿:
こんばんは。@hijijikikiです。
上のコメント欄での、spitzibaraさんとのやり取りを、拙まとめ:
「利益相反と科学の劣化:科学的とは何か・特別なことなのか?」http://togetter.com/li/738105
に、まとめました。
また、拙まとめ:
「尊厳と負い目・負債の扱われ方と能力・業績主義:犠牲/業績の累進性の呪縛」http://togetter.com/li/698673
の末尾に、貴エントリー:
「「尊厳死」ではなく、もはや「自尊死」:永嶋哲也氏論文」http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara2/63939832.html
のコメント欄でのやり取りを加入しました。
とりあえずお知らせします。
過不足や問題点があればご指摘下さい。
2014/10/29(水) 午前 1:46 [ @hijijikiki ]
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spitzibara氏の投稿:
hijijikikiさん、おはようございます。いつもありがとうございます。さっそく読みに行ってきました。
昨日のメモに拾った、IRBにとって代わろうとする、ウィルフォンドたちの倫理コンサルテーション・サービスの論文を、午後になって読んでみたところだったのですが、その理念として「これは規制にひかかるかどうかという視点ではなく、これは人々が研究に期待している精神に適うか、という視点から検討する」とされていて、生命倫理学の権威がNIHなどの行政機関による被験者や患者保護のための規制を回避するアリバイとして機能する仕組みが作られようとしているのでは、と感じます。
まとめていただいたやりとりの先に、この問題が接続していくんだなぁ、と改めて思いました。
2014/10/29(水) 午前 8:18 [ spi*zi*ara2 ]
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上記は、spitzibara氏のブログのエントリー:「 ワクチン未接種の子どもの入学拒否、裁判所が認める(米)」http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara2/64185721.html のコメント欄へのコメントです。
●下記は、同じく「2014年10月28日のメモ」http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara2/64330595.html
のコメント欄へのコメントです。
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@hijijikikiの投稿:
返信とご紹介ありがとうございます(ご紹介のあるこちらのコメント欄に書きます)。
上記のIRBの記事とリンク先から、「組織内審査委員会IRB」で検索してたどり着いた、医療人類学の池田光穂氏の「研究倫理に関する3つの誤解」http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/140725Research_Ethics01.html の以下の部分が興味深かったのでご紹介します。
「研究倫理(Research Ethics)とよばれるものが,研究者や研究行為の中に最初から含まれているものではなく,これまで絶えることのなかった研究不正の暴露・告発・改善要 求への〈対応〉を通して,生まれてきたと考えるからである。研究上の不正は,日常生活における倫理コード=「正しいことをなす」ことからの逸脱を意味して いるからでもある。つまり研究倫理について多角的かつ真摯に考えるためには,研究不正の実態とそこに伏在する日常的論理への〈分析的態度〉がなければなら ないと私は考える」
2014/10/30(木) 午前 1:38 [ @hijijikiki ]
ご紹介いただいた
『「……人々が研究に期待している精神に適うか、という視点から検討する」とされていて、生命倫理学の権威がNIHなどの行政機関による被験者や患者保護のための規制を回避するアリバイとして機能』
というような、“規制を回避するアリバイ”として「人々が研究に期待している精神に適うか、という視点」が使われるとすれば、
池田光穂氏の「研究倫理に関する3つの誤解」に書かれている:
「研究不正の実態とそこに伏在する日常的論理への〈分析的態度〉がなければなら ない」
が示す、日常生活=日常的論理への反省や分析を全く考えずに、それらを(故意に)無反省に逆用して、不正を見逃すために使おうとしているように見えます。
人々の“漠然とした期待”のような俗情を根拠とする倫理が倫理と言えるのでしょうか。
2014/10/30(木) 午前 1:39 [ @hijijikiki ]
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spitzibara氏の投稿:
おはようございます。さっそくに興味深いレスをありがとうございます。
昨日、hijijikikiさんとのやりとりの後で、やっぱりまとめておきたいと思って当該論文をエントリーにしてみたので、以下にTBしてみますね。「公的な研究事業に人々がなにをしてほしいと望んでいるか」とは、ぶっちゃけ、科学とテクノの国際競争に勝ち抜くことであり、それによって手に入れる巨大利権のことだろうと私は読んだのですが、それはそのまま経済ドライブという「日常的論理」とも言えますね。
2014/10/30(木) 午前 8:13 [ spi*zi*ara2 ]
昨日、「倫理部隊」のエントリーを書きながら思い出したのですが、ずっと昔、娘が小さい頃に小児科の先生が「インフォームドコンセントってね、日本では別のもののように言われて広まっているけど、あれは訴訟大国のアメリカで医者を訴訟から守るために考え出された仕組みだからね」と(釘を刺すように)言われたことがあって、何も知らなかった当時の私は「なるほど、そういうものか」と納得してしまって、後になってタスキギとか、その他さまざまなICを含めた研究倫理について知るにつけ、そうした(日本の?)医療の世界の「独自解釈」に疑問を持つようになりました。
2014/10/30(木) 午前 8:30 [ spi*zi*ara2 ]
つい最近も、ステルスで進む「日本型POLST(事前指示を病院や施設の聞き取りという形で強制する仕組み)」について、あるドクターから「緊急時にいったん挿管してしまったら、私たちは抜くことができないので、そうならないために」と説明されたので、「でも先生、いまはガイドラインで、話し合いと信頼関係に基づいて抜けるようになっていますよね」と言ったら、まさか患者サイドのそういう知識は想定外だったようで一瞬絶句された後で、「でも、後で余計なことを吹き込む人は出てくるものなんだよ、だから、そこは今はもう文書にしておく時代なんだよ」という話になっていく。「でも、その文書には実は法的根拠はないですよね」と言おうかと思ったんですけど、そこで気力が失せました。
問題は、そんなふうに、きちんとした事実認識の掘り下げもまともな議論もないままに、「知らしめず拠らしめよ」の文化に乗っかって、本来の弱者保護の理念を換骨奪胎して強い者の側にだけ都合良く書き換えた解釈を、患者サイドに平気で吹き込んでいく、医療を含めた科学の世界の姿勢にこそあるという気がして、根の深さにメゲた、というか。
2014/10/30(木) 午前 8:37 [ spi*zi*ara2 ]
ついでにいえば、日本の尊厳死法制化議論の進め方にも、まったく同じ構図がありますよね。いったん延命を始めたら医師には中止したくてもできないから、医師を免責するために法制化が必要だ、と。
ここでもやはり、ご教示いただいた3つの誤解があてはまりそうです。尊厳死も終末期医療も、本質的な議論は日常的な医療のあり方に向かうし、そこにある問題に対して「暴露・告発・改善要求」(このままでは言葉としては非常に対立的ですが、そこを「共に考える」ということはこの問題では可能だと思うので)を丁寧に繰り返していくことによってしか、尊厳死の問題も終末期医療の問題にもほんとうの意味での解は見つけられないような気がするのです。
2014/10/30(木) 午前 8:56 [ spi*zi*ara2 ]
hijijikikiさんとの、これ以前のやり取りが迷子にならないように、順番が前後しましたが、もともとコメントを入れてくださったワクチン関連のエントリーを追加でTBしました。
2014/10/30(木) 午前 8:57 [ spi*zi*ara2 ]
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@hijijikikiの投稿:
トラックバック先の記事、「倫理部隊」http://blogs.yahoo.co.jp/spitzibara2/64332593.html ですか。前にご紹介した予防接種推進専門協議会委員長・神谷齊氏の「ワクチン接種は国防」http://togetter.com/li/465170?page=5 発言と同様に、ここでも軍事的な比喩や命名がされていて、それは医療にまつわることが軍事的・暴力的・上意下達的な側面を持ちうる/持たせうる/持たせたいと考える人がいることを的確に表しているように感じます。
そして、ご指摘の『そこにある問題に対して「暴露・告発・改善要求」(このままでは言葉としては非常に対立的ですが、そこを「共に考える」ということはこの問題では可能だと思うので)を丁寧に繰り返していくこと』は同感です。
ここで重要だと思うのは、医療提供者(医者・医療従事者など)と医療被提供者(患者やその親族など)との間に存在する“対立”やこれまでの両者間の交渉や闘争、即ち「暴露・告発・改善要求」があたかも存在しないような議論や倫理規定などが提供者側から提示されるという現実です。これをいかに指摘して修正させてゆくかが大きな問題かと。
2014/10/31(金) 午前 1:23 [ @hijijikiki ]
また、ご指摘の『本来の弱者保護の理念を換骨奪胎して強い者の側にだけ都合良く書き換えた解釈』も同感です。医療提供者と被提供者間に存在する力関係の圧倒的な差や非対称性が、あたかも存在しないような、弱い立場を考えるという道徳や倫理で当然なされるべきこと=道理・人道に反する扱いがあちこちで見られるように思います。
弱い立場に配慮しないことや、それだけでなく、その弱みにつけ込むような議論や解釈がされていることが問題です。
医療被提供者≒患者は心身に問題を抱え、状態が悪いから医療の提供を受けることがほとんどであり、また被提供者の親族なども被提供者への心配や病気への不安などの負荷を抱え、かつ医療に関して専門家でない場合が多いでしょう。
それに対して、提供者≒医者・医療従事者・研究者・役人などは提供者としての職務で報酬を受け取ることがほとんどで、心身の状態はその職務を遂行できる良好な状態であるはずであり、専門知識も(建前上は)あるはずです。
この辺の、本来なら「言わずもがな」の、当然考えるべきことがおろそかにされているのでは。
2014/10/31(金) 午前 1:24 [ @hijijikiki ]
更に日本では、医者(及び“先生”と呼ばれる専門職)の社会的地位が高く、医者や医療従事者に対して反論したり批判したりすることが難しいだけでなく、対等な議論すらなかなかできない(最近少しはまともになってきたかもしれないが)。
以上述べてきた医療提供者と被提供者との間にある、圧倒的な力関係の差や非対称性から、両者が対等な関係で交渉したり、話し合ったりするためには、弱い立場である医療被提供者≒患者の側に配慮した制度や議論の仕方が必要であり、それを実現することこそが“倫理”なのではないでしょうか。
また更に言えば、圧倒的な力関係の差や非対称性がある立場の間での「わかりあえなさ」、相互の理解が難しいこと(特に強い立場である医療提供者からの)は、異文化とも言えるような差があるのではないか。そしてその差を前提にして、それを踏まえた議論が必要に思えます。
2014/10/31(金) 午前 1:24 [ @hijijikiki ]
前にご紹介した、医療人類学の池田光穂氏の「倫理委員会(IRB)の社会的機能」から引用:
「文化人類学では,他者および他者の集団に対して,自己とは異なった存在であることを容認し,自分たちの価値や見解(=自文化)において問われていな いことがらを問い直し,他者に対する理解と対話をめざす倫理的態度のことを文化相対主義という。平たく言えば,自文化からの先入見でもって,異文化である 他者の立場を軽々に判断を下してならないというものである」
という異文化である他者の尊重と同じことを、強い立場である医療提供者に義務づけるような制度の設計や議論の枠組みを作る必要を(その職務から報酬を受け取っている故になおさら)感じます。
2014/10/31(金) 午前 1:25 [ @hijijikiki ]
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spitzibara氏の投稿:
hijijikikiさん、ちょうどコメントをいただいた1時過ぎに身近な者が亡くなったものですから、身辺が落ち着かず、きちんとしたお返事を書く余裕がないのですが、鋭いご指摘、まったく同感です。特に最初の、squad という呼び方については、ほんとうに鋭いご指摘と思います。また落ち着いてから、また改めて考えてみたい問題ばかりです。今後ともよろしくお願いいたします。
2014/11/1(土) 午後 9:59 [ spi*zi*ara2 ]
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@hijijikikiの投稿:
そうだったんですか。謹んでお悔やみ申し上げます。
悪いタイミングで長いコメントをしてしまって恐縮です。
また機会があればやり取りさせてください。
こちらこそよろしくお願いします。
2014/11/3(月) 午前 1:46 [ @hijijikiki ]
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●「科学知識と感情に訴えかけるもの」http://togetter.com/li/801733
の後半の牧野 淳一郎氏@jun_makinoのツイート:
これはまあ、何か知識のようなものが信用を獲得する過程というのは結局のところ社会的プロセスで、その中でその知識のようなものが本当に信用できる知識かどうかということは全くなんの役割もはたさないわけではないがそれで全てがきまるわけでもないというだけの話。
2015-03-30 22:46:31まあ、で、原発の事故とか、例えばワクチンとか薬で当初知られていなかったことになっている副作用とかがいろいろでてくると、それは信用できるように見える体系的知識みたいなものを信用できない側に戻して再検討しようという圧力にはなる。
2015-03-30 22:46:34でも、それには既に獲得された信用やそれに依存する色々 ( 利害関係を含めてだがそれだけではない ) に由来する抵抗があって、圧力が弱いと抵抗に負ける。
2015-03-30 22:46:36で、私の考えとしては、こういう、科学的知識みたいなものが信頼を獲得する過程、というのは、実際に確かに信頼できるものもある、ということに基づいた、ある意味間違った帰納法というか一般化みたいなものに基づいているのではないかと思う。
2015-03-30 22:46:40例えば、科学は信頼できるものであるから、科学者個人も信頼できるものである、ないしはそうあるべきである、というのは、まさにそういう間違った一般化といえよう。
2015-03-30 22:46:43