【10/24更新】鶯丸友成と飯田市松尾

刀剣乱舞の鶯丸に今頃ハマり、しかも元ネタの刀が地元信州と関わりがあったことを知って勢いで調べ、現地を回ってきたレポート。 本当にただの聖地巡礼レポなので大した情報はないのですが、鶯丸は信州のこの場所にいたんだよってことがわかれば幸いです。 ※新しい情報や、関連する考察ツイートなどしたら都度追加していく予定です。
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ナガツキ@6月まで残しておきます @ngtk_blue

1日で回った為時間がない+予期せぬトラブルがあってちょっとグダグダになってしまったのですが、今日は鶯丸(元ネタの刀)と、その元々の持ち主だった松尾小笠原氏に関連する場所を巡ってきました。 場所は長野県南部の中心・飯田市松尾地区。 鶯丸はここに約150年いました。

2015-10-04 21:33:51

補足:松尾小笠原家

政康(1441年の結城合戦の功績を称えられ、鶯丸を幕府から貰う)

光康(ここで松尾・府中・鈴岡の3家に分かれ家督争いへ)

家長

定基

貞忠(家督争いに敗れ、甲斐の武田信玄の下へ落ち延びる。この時家宝の書物なども持っていったらしいのですが、その中に鶯丸が含まれていたのかは不明)

信貴(信玄の信濃侵攻時に共に進軍。松尾に戻り、松尾城と開善時を再興。神宮寺を建立)

信嶺(1590年に本庄へ転封。幾度かの転封の後、貞信の代より勝山小笠原氏となる)

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松尾城址公園 松尾小笠原氏の居城です。現在は石碑を残す程度にしかなく、小高い丘の上にある広い原っぱで、市民の憩いの場になっています。 築城時期は不明。1590年、小笠原信嶺が本庄(埼玉県本庄市)に転封されるのに伴い廃城。 pic.twitter.com/xjN1ovTYAC

2015-10-04 21:43:17
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アップダウンの激しい小道を15分ほど歩くと鈴岡城址公園にたどり着きます。 こちらも現在は公園になっていますが、城としての遺構はこちらのほうがはっきりしているのか、ところどころに説明看板が立っていました。 こちらの方が見晴らしがいいです pic.twitter.com/xUggvrU0C7

2015-10-04 21:45:57
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実はこの2城…松尾小笠原氏と鈴岡小笠原氏は対立関係にありました。こんな近くでいがみ合いとは・・・。 今は橋で行き来することが可能ですが、橋の下にはとても深い毛賀沢川の谷があります。 鈴岡城は鈴岡小笠原氏が滅亡した後に松尾城の支城となりましたが、1590年に同じく廃城となります。

2015-10-04 21:54:15
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さて、鶯丸は松尾城にあったかというと、そうではなかったようです。 「松尾村小史」によると、1441年5月26日、幕府は政康に鶯力太(まさかの誤植)を与えて戦功を賞した。合戦に出発するときに嶋田八幡宮に祈願して武功を納めたので、祈願した3月15日を例祭の日(鶯太刀祭り)とした。

2015-10-04 22:01:59
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そして幕府より賜りし太刀は八幡宮に奉納した…とあり、鶯丸はこのときから大事にされていたことが伺えます。 当初嶋田八幡宮でぐぐっても出てこなくて首をかしげたのですが、松尾地区にある八幡宮を調べたら出てきました。 鳩ヶ嶺八幡宮です。 pic.twitter.com/rXwHUy5Mo0

2015-10-04 22:05:50
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鳩ヶ嶺八幡宮は1062年に岩清水八幡宮を勧請し、1257年に小笠原長政が社殿を造営したそうです。現在の本殿は1662年に脇坂安村が造営した物です。 江戸時代までは島田八幡宮と呼ばれ、昭和24年神社庁より鳩ヶ嶺八幡宮の称号が確定しました pic.twitter.com/qAqtKQxPKj

2015-10-04 22:10:39
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そして、「鶯丸友成という太刀」のまとめで話題に出ていた信州松尾神宮寺ですが、この鳩ヶ嶺八幡宮の敷地内にあったようです。位置は特定できませんでしたが。 郷土史も少し漁ったのですが、やはり鶯太刀の祭はあったということしか触れられておらず、詳細は記載されていませんでした・・・。

2015-10-04 22:15:28
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その松尾神宮寺ですが、「松尾村誌」によると1568年に小笠原信貴が建立。子の信嶺が本庄に転封した後も残っていましたが、明治元年の廃仏毀釈に伴い廃寺となりました。 松尾小笠原氏がいなくなった江戸時代には勢力があり、神主を圧倒していたそうです。

2015-10-04 22:21:18
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神宮寺自体はもうありませんが、山門は運松寺に移築されています。 屋根瓦の巴には、小笠原家の家紋である三階菱の残ったものもあるそうです。 敷地内に薬師堂があるのですが、そちらは小笠原貞宗が如来を安置、祭祀したのが由来と推察されています。 pic.twitter.com/Jl4NbUWARi

2015-10-04 22:28:22
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10/18 追加:この門を作った諏訪出身の名工、立川和四郎(冨棟)について調べたところ、彼は1744年の生まれなので江戸時代後期のものと見ていいようです。
鶯丸がいた頃の神宮寺を感じさせるものは、残っていないみたいですね…。

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この他にも松尾小笠原氏と関連のある場所はあるのですが、鶯丸友成と関係が特に深いのはこの3ヶ所かと。 信州にいた150年は彼にとって短いものだったかもしれませんが、その足跡を少しでも辿れたのは嬉しかったです。 まだ深く突っ込めば色々出てきそうな気がしますが、ひとまずはこの辺で。

2015-10-04 22:36:17

10/24追記:松尾神宮寺について

正式(?)な名前は降松山神宮寺。
松尾周辺が古くはその地が降松郷と呼ばれていたことから由来していたそうです。

以下のツイートは、後日郷土史「下伊那史」に掲載されていた文面から抜粋したものになります。

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図書館に行って下伊那史の5巻をざっと読んだのですが、松尾神宮寺の詳細について少しだけ書かれていました。 新情報というよりは、ちょっと残念な結果になってしまったのですが。

2015-10-24 16:08:22
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まず神宮寺のあった場所ですが、鳩ヶ嶺八幡宮内の参向殿北隣にあったようです。 Googleマップの画像で申し訳ないですが、現在で言うところの赤丸の位置ですね。見 pic.twitter.com/E1WNIBHCL4

2015-10-24 16:12:07
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そして鶯丸友成があった時代はどのような立ち位置だったのかについてですが、これに関しては資料が存在せず現在においてその寺暦を知ることは出来ないとありました。 力を持ちすぎたせいで江戸時代にゴタゴタがあったらしく、それによる文書の改ざんなどで信憑性がなくなり処分されたとか。

2015-10-24 16:15:10
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しかし飯田市下久堅にある文永寺に残っている文書、また宗門的地位から察するに、建立してそう経たない時期から経済的にも社会的にも相当有力な寺院であり、また文永寺と同様ある種の御修法による祈願寺であったようです。

2015-10-24 16:20:33
ナガツキ@6月まで残しておきます @ngtk_blue

松尾村小史の年表では1788年に神宮寺の僧正に当たる人が追放されたと書かれているので、恐らくそこに至るまでに文書などが失われたのではないかと思われます。 個人的に「なんて事をしてくれたんだ!!」って掴み掛かりたくなるくらい遺憾に思いますね。

2015-10-24 16:41:46
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御修法:真言宗で後七日御修法の略称。宮中において,毎年元日から7日までの間に行われる種々の神事の終ったあと,真言院において8日から 14日までの7日間,天皇の安寧や国家安穏を祈る秘法を修することをいう。(コトバンクより) 神宮寺の宗派は真言宗であり、江戸時代は文永寺の末寺でした。

2015-10-24 16:24:30
ナガツキ@6月まで残しておきます @ngtk_blue

また祈願寺は仏教信仰が武士に広まると、当主や一族の繁栄や無事を祈るために建てられました。 近代以前の祈願とは、例えば「~の願い事を叶えて頂いた暁には、燈籠を奉納します」のように神仏との契約で現代のように、願い事を行うだけの一方的な関係ではなかったそうです(ウィキペディアより

2015-10-24 16:31:59
ナガツキ@6月まで残しておきます @ngtk_blue

下伊那史には「ある種の」とあり、本来の御修法とは違ったものだったことが伺えます。 以上の事と「勝山まち歩きガイド」の文面を照らし合わせると、やはり神宮寺ができて以降鶯丸友成は八幡宮から神宮寺に奉納され、そこで鶯太刀祭りが行われていたのでしょう。

2015-10-24 16:37:52

10/7追加:後日、まとめを読み返してて「八幡宮に奉納されていたと言う事は、鶯丸は信州にいた頃は御神刀扱いされていた…?」と今になって思い、そこから出てきた取り留めのない考察ツイート(あくまでまとめ主の見解です)

ナガツキ@6月まで残しておきます @ngtk_blue

勝山時代の詳細は先駆者様のまとめの範疇でしか知らないのであれですが、飯田にいた時と同じように例祭をしていたのなら勝山でもやはり奉納されていたかもしれません。長い間ずっと手放さなかったのも、奉納されていたからと考えれば何となく分かる気がしますし。

2015-10-07 21:00:28
ナガツキ@6月まで残しておきます @ngtk_blue

気になって「勝山まちなかガイド」の八幡宮と神宮寺跡の項目を読み返したんだけど、祀神が鳩ヶ嶺八幡宮と同じ誉田別命と小笠原貞宗のところを見るに、どうやら飯田の八幡宮と神宮寺そのままに建立したのではないかと思います。 そう考えると、松尾(勝山)小笠原家はどんだけ信心深かったのか…。

2015-10-07 21:17:44