- onoyasumaro
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安保法制成立後から現在までは、反安保法制の枠組みの社会運動は試練の時だったと思います。これまで数多くの運動が街頭行動のピークを過ぎると内部対立で分裂していったから。ところがこの運動は分裂するどころか野党をはじめさらに対抗勢力を結びつけようとするプロセスを歩んでいる
2015-10-07 10:51:25とはいえ、いまの運動には潜在的な対立もあります。それはイデオロギーというよりも、方法的なもので、重複する二つのものがあります。ひとつは、習慣的な方法でやっていこうという活動家層と、いまの大衆文化や消費文化に対応した方法論を模索している活動家層の、「活動家」的世代対立。もうひとつは
2015-10-07 11:13:37@sangituyama もうひとつは古代中国の「易経」にある「道器」論に例えられる。「形而上なるもの、これを道といい、形而下なるもの、これを器という」というもの。つまり正しき「道」を説くことと、物事を作動される「器」が組み合わさってはじめて仏道は修められるというもの。 続
2015-10-07 11:19:28@sangituyama この「器」というのは、野間易通氏が「金曜官邸前抗議は「器」である」といったのに対応していますよね。つまり仏の道であろうと社会運動であろうと、道=方向性や路線と、その道を機能させ、人々を集合させる器が組み合わさってはじめて成立するということ。続く。
2015-10-07 11:23:51@sangituyama 運動における潜在的対立の一つを この「道器」論にたとえると、「やたら正しい道ばかり説いて器についてまったく顧慮しない人たち」と、「すでに道は民衆が自発的に敷いているのだから、もっと大きな器をつくりあげようといろいろやる人たち」の対立だったわけです。
2015-10-07 11:26:13@sangituyama 概して街頭闘争がピークをすぎると前者の「正しい道」のひとたちが論争を制覇して運動は分裂局面にはいり普通の人たちはよりつかなくなります。だがいまのところ「すでに道はあるのだからもっと大きな器を」という人たちが優勢だから分裂なんてことになってないんでしょう
2015-10-07 11:30:01@sangituyama きっと古来から、人間は同じような失敗をし、そこから教訓を学び、そしてそれを忘れを繰り返してきたんでしょうね。仏の道も社会運動も同じといえば同じなのかもね。
2015-10-07 11:43:55