ゲームにおける自由とは何か?(仮)
- shinichikudoh
- 12590
- 2
- 54
- 0
ルートをたどる様なゲームの遊び方しか無いならば、網羅的にゲームの選択肢を広げて閉じる方法論もないことはない。しかしそこには「その選択肢が魅力的かどうか」という基準が欠けている。何よりプレイヤーは「魅力的な選択肢を選びたい」のだ。
2011-01-09 17:20:28ゲームがゲーム内だけで成立していないというのは、ネットがネット内だけで出来てるわけじゃないのと同じで、当たり前のことではある。
2011-01-09 17:22:33そこでそういう「魅力的な選択肢を先回りして提示すれば満足させられる」という手法の選択は正しい。しかしこれでは常にプレイヤーの情報と選択の関係は受動的にならざるを得ない。レールの上を気持ちよく滑走しているのは間違いないが、プレイヤーが自らドライブして遊んでいるのとは「意識が違う」。
2011-01-09 17:23:41マスターが物語を管理しつつ、プレイヤーに自由を味わってもらいながら統制された物語を作ろうとする場合、マスターが情報を取り囲んでゆくことで収束させてゆくという一方的なやり方では、結果としてプレイヤーは十分な接待によってゲームを楽しめても、「私の物語を楽しんだ気分」にはならない。
2011-01-09 17:33:11その提題は、もう一階上の話になっちゃいますね……。例えば、宮本茂のゲームデザインはプレーヤーを信頼しているのか、という難題に近い。@yas_kawamura
2011-01-09 17:36:10「一本道RPG批判」と聞いて「一本道」という名前のアダルトサイトがあるのを思い出したのだけれど、あれはおそらく膣道を指しているんだと思われる。トールキンの『ゆきてかえりし物語』よろしく、インタラクティブな産道。海外RPG的な自由度が導入されて、口道や尻道までもが酷使されることに。
2011-01-09 17:36:18さらに言えば、宮本茂よりよりヒットするゲームデザインがあるとして、そこで見いだされる自由とはいかなるものか、ということです。@yas_kawamura
2011-01-09 17:38:23結論として、マスターだけではなく最初にプレイヤーに理想を理解してもらわなくてはならない。そして「マスターは魅力的な状況や選択肢や展開を提示する」し、「プレイヤーは(自分自身にとってではなく、物語にとって)魅力的な展開を誘発する様な行動を提示する」努力でしかゲームは自由にならない。
2011-01-09 17:38:48@tricken テーブルトークとデジタルゲームは違い、マスターが柔軟に対応するといった機能はデジタルにはない。従って「疑問の生じないメカニズム」にすることで、プレイヤーは常に「楽しい選択の連続」を良質のデジタルゲームでは得ている。だからむしろテーブルトークのが柔軟のはずよ。
2011-01-09 17:43:01@tricken 「プレイヤーが主体的な行動をしている気分を得ているかどうか」に配慮されたゲームは、逆に「他に選択の余地がない」システムになっている。その選択の余地がない中にも、魅力的な選択がいり子になって用意されている。それが優れたゲームのシステムでしょうね。
2011-01-09 17:46:20@tricken そしてそういうゲームは「制限しないといけないから」そういうシステムを選択したのではない。「その遊びが面白い」という目的をもってシステムは選択されている。面白くない要素を排除して先鋭化した物であるだけです。ここには先程のリンクにあった論理とは決定的な差がある。
2011-01-09 17:48:16さっき何でゲームの話から星野しずるの短歌の話になったかというと、定型の枠組みの中での疑似的な自由を愉しむというか、そういうところが似ているように感じたわけで。あえて規律訓練を受けることによって産まれる連帯感に快感を覚えるようなマゾ的な資質がなければ、短歌もゲームもできないだろう。
2011-01-09 18:33:35てなわけで @tricken @yas_kawamura お二人による「ゲームにおける自由とは何か?」に関するログを読んでる。トゥギャるべきか?
2011-01-09 18:36:13@shinichikudoh どうすかねえ・・・俺は興味がある人がええようにしてもらったらいいと思うけど。
2011-01-09 19:28:36会話型のRPGの話としては仰る通りかと思います。卓を囲む人々は、状況を一意に解釈するためのシステムをその都度自由に選べる。ただ今回僕が聞かれた一本道RPGの話は、あくまで『幻想水滸伝』のような和製CRPGの話で、その難題の手前にあるものでした。 @yas_kawamura
2011-01-09 20:07:46@tricken うん、だから「(物語としては上質であると仮定して)プレイヤー心理をそう持ってゆくことが出来なかった結果」という話をしましたよ。
2011-01-09 20:18:02@tricken そしてそれは仕組みとしては様々な達成方法があり、一本道でも達成できるし分岐でも達成できる。幻想水滸伝が一方では内容で評価され、一方では「一本道に感じる」と評価を下げているならば、それはデザインの意図の問題。しかしリンク先の話は、手法はともかく意図に難があるなあ。
2011-01-09 20:30:12あ、そちらは読み飛ばしていました。その補完で納得です。僕は、「記述=共有したい状況がプレーヤーに把握された時、その記法や時空間の流れが状況ごとに自動的に切替わる」ようなコンピュータRPGが出来ればいいかもしらんなと思ってます。 @yas_kawamura
2011-01-09 20:31:28まだシナリオ記法が産業的に成熟してない時代の論文ですから、そこは仕方ないですね。分岐以外に決断と結果の重み、エラーがどこで起きたかをプレーヤーに把握させるメカニズムが主流になっていなかった。@yas_kawamura
2011-01-09 20:33:59ちなみに幻想水滸伝は、今回批判対象にはなっていません(笑)。海外RPGゲーマーの方から直接話を聞く機会があり、「ビデオゲームでは幻想水滸伝2と5が理想だね」と言われ、僕が「和製RPGシナリオが一本道だという批判についてはどう思うか」を尋ねたのです。@yas_kawamura
2011-01-09 20:36:57@tricken 強制選択の心理を利用するって言うのは、単に「自由だなあ」と感じさせるためのひとつのテクニックでしかないです(意図を理解して分岐を作るのと、知らないでただ増やすのでは違う)。単純にデジタルのRPGで使えるテクニックとしては、その辺をうまく利用するしかないかと思い。
2011-01-09 20:37:37和製RPGを高く評価する動きはアメリカでは少数派らしいですが、それでも「一本道が問題ではない。ムービーで管理権限奪われるのがダルいという印象の方が強い」という話に(笑)。まあ、これは和製RPG全ての特徴ってわけでもないですね。 @yas_kawamura
2011-01-09 20:39:42ちなみに今聴いた話は個人的インタビューに過ぎず、ベタな事実観察として書いているわけではないことは付言しておきます。
2011-01-09 20:40:40