アレクサンドロスの合同結婚式についてからの諸々
- centurio_P
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アレクサンドロスの東方遠征後の帝国統治政策の一つ「マケドニア人男性とペルシャ人女性の合同結婚式」について「東西融合の政策ならばペルシャ人男性とマケドニア人女性とのものもあってよいはずだ。東西融合政策とは言い難い」というのは一定の説得力はあります。
2015-08-23 18:21:36(個人的にこの言説を見ると森谷先生の本読んだなと思ったり)ただ、同時にそれは当時のアレクサンドロスの支持母体と権力基盤の考慮もしないといけないと思います。当時、アレクサンドロスは東方遠征から帰還したばかりであり、長い遠征中、後を任していた高官らから権力を回収すべく色々やってました
2015-08-23 18:25:14長い遠征は留守を任せていた高官(大抵はマケドニア・ギリシャ系である)らにアレクサンドロスのことをすっかり忘れさせており、バクトリアやインド方面で彼の遠征軍が苦戦している間、後方からの物資供給や兵力提供を怠らせ、不正な財産の押収や公金横領等が頻発しておりました。
2015-08-23 18:29:55なので帝国の中心となったペルシャに帰還したアレクサンドロスはこの怠慢に厳しく対応しなければならなかった。メディア地方にてメディア人の財産を不当に押収していたクレアンドロスやアレクサンドロスの友人であるハルパロス等もこの例にもれず追放や死罪、亡命を余儀なくされている。自業自得ですが
2015-08-23 18:33:19当然のことながらアレクサンドロスの帝国はアルゲアダイ王家のものであり、今や王の臣下となった旧ペルシャ帝国の民らもアレクサンドロスの臣下であります。だからこそ、王の臣下から勝手に財産を押収したりすることは言語同断ですし、単なる留守居役が王のように振舞うのも以下同文。
2015-08-23 18:37:41そして、多民族国家であればコンフリクトを抑えつつ統治せねばならないのは当然であり、征服者といえども現地の文化や慣習も尊重し、互いに溶け込み組み込んでいかなければならない。
2015-08-23 18:44:10後のヘレニズム諸国がヘレニズムを齎しつつも現地文化との融合を果たしたり、現地民族の起用を積極的に行い、それまで頑迷で自らの文化に誇りと優越感を持っていたギリシャ人らも現地にて衝撃と受けると共に現地文化を尊重し柔軟になっていったことからもわかることです。現地の権力基盤を得る為にも。
2015-08-23 18:47:12しかし、アレクサンドロスの合同結婚式の時期は「東方遠征が終わったばかり」であり、アレクサンドロスの現地民族への統治者への配慮と東西融合策は「征服者」という自負が強かった当時のマケドニア・ギリシャ人らにはしばしば「被征服者である現地民族への優遇策」としか思えないところも多々あり。
2015-08-23 18:49:32王自身がギリシャ風の恰好からペルシャ風の恰好を好んでするようになっていたこと等もあり。、「なぜギリシャ世界が蛮族どもに合わせなければいけないのか」これは東方遠征中から燻っていたことですが、それらはギリシャ・マケドニア人らの強い反発、行き過ぎれば暴動や反乱未遂にも至る問題でした。
2015-08-23 18:53:32過酷な東方遠征は、付き合いきれなくなった臣下や兵士らの反発から中断されましたが、アレクサンドロスの人気と彼への忠誠心は遠征が終わった後も基本的に高いものでしたが、先の留守居役への苛烈な厳罰と現地民族らへの配慮と東西融合を伺わせる政策は、彼らに不安感と反発を生んでいたんですね。
2015-08-23 18:58:01特に当時のアレクサンドロスの中心的支持母体であったマケドニア人ぺゼタイロイといった主力重装歩兵らの「王は先代からの長年の戦友であり、臣下である我らに飽きたのではないか。見捨てるのではないか」という不安感はかなりあったようで、この時期から声高に王を批判する者も出始めていたとされます
2015-08-23 19:04:30この不安感は一部、事実といえる面もあったでしょう。当時、アレクサンドロスは広大な帝国を統治すべく、その権力基盤と支持母体の割合に、徐々に現地の旧ペルシャ帝国の貴族や官僚を増加させ、スライドさせつつありましたから。「ペルシャ人に心を移しつつあった」というのも一つの事実ではある。
2015-08-23 19:08:56しかし、もちろんアレクサンドロスも元々の権力基盤かつ支持母体であり、戦友であったマケドニア・ギリシャ人らのことも忘れておらず、その支持を維持すべく苦心しております。声高に批判された際には衝撃を受けたようで、幾度も兵士らに演説したり、段階的に故郷マケドニアへ帰還を望む者を帰らしたり
2015-08-23 19:17:30逆に家族を呼び寄せる配慮をしたりと。そうして和解を模索し、彼らを宥めるようにしてました。そして、これは成功しつつありました。
2015-08-23 19:19:26相変わらず、前振りが長い…。さて、このような時期に政策の目玉として壮麗に行われた合同結婚式ですが、このような情勢の中、「マケドニア人貴族男性とペルシャ人貴族女性」と共に「ペルシャ人男性とマケドニア人女性」を結婚させることが受け入れられたかというとかなり微妙だったと思います。
2015-08-23 19:22:01つまり、それは被征服者であり被支配層であるペルシャ人らも(勿論、東方遠征中から早期にアレクサンドロスに帰属したペルシャ系太守や貴族官僚らはそのまま統治機構に組み込まれてましたが)支配層への組み込みを行うということを明言することで。またぞろ反発と不安感を生む恐れがあったと思われます
2015-08-23 19:25:12あくまでこの時期は支配層である「ギリシャ・マケドニア人」を被支配層である現地民族へと歩み寄らせる時期であり、そういう意味では「東西融合策」の一環なのです。
2015-08-23 19:28:30あと、結局のところこの時期はまだ帝国の統治が始まったばかりでギリシャ人の入植(各地のアレクサンドリア除く)も初期も初期で始まったばかりであり、男所帯が中心でしたしね。ちなみに合同結婚式した後、遠征軍のマケドニア人兵士一万人も高貴な方々に倣ってペルシャ人女性と結婚してたりする
2015-08-23 19:29:36この後も「ギリシャ・マケドニア人」を現地民族へと歩み寄らせる政策はいくつか行われており、有名なのだとティグリス川のほとりにおける壮麗壮大な合同祭儀の後に、ギリシャ・マケドニア人とペルシャ人を「共に暮らし、かつて戦い、かつて遠征を共にした兄弟」とする宴が行われていたり。
2015-08-23 19:38:28この宴の前後、アレクサンドロスとギリシャ・マケドニア人兵士らとの和解は成立しており、マケドニア人兵士の内、一万人(それ以外はオリエントに残り、現地に根付き始めた)はアレクサンドロスに暇乞いをして故郷マケドニアへの帰還を開始しており、アレクサンドロスも快く送っていたりします。
2015-08-23 19:41:28あ、現地に残る選択をした遠征軍兵士は各地のアレクサンドリアやギリシャ人入植地に散っていったとされますが、その一例でペルシャ湾のアレクサンドリアの一部に「ペッラ(当時のマケドニアの首都と同名)」という植民都市を作ってたりします。
2015-08-23 19:45:27あと宴の「かつて遠征を共にした」っていうのは東方遠征中に旧ペルシャ帝国の兵士や戦士らも積極的に遠征軍に組み込んでいったからですね。
2015-08-23 19:48:24例えば遠征当初はマケドニア人貴族ばかりだった親衛騎兵隊「ヘタイロイ」も遠征末期にはマケドニア人だけでなく、ペルシャ人やスキタイ人、インド人などかなり多民族の混成騎兵隊になってますねー。なお、質と練度は変わらず。
2015-08-23 19:49:00@centurio_P 「元不死隊でディアドコイにもちょっと参加したけど何か質問ある?」というAsk Me Anything!!を反射的に想像しました
2015-08-23 19:52:14