「考える力」をどう養うか・・・授業改革と受験改革の提言
- ShinShinohara
- 19716
- 4
- 20
- 103
今の大学生は「なぜ?」という問いをしないので困る、という大学の先生の嘆き。私も学生を指導してきて「疑問に思わない」というのはその通りだと思う。ただ、私も学生の頃はそうだったし、むしろもっとひどかったので、今の学生をとても笑うことはできない。
2015-10-27 07:46:49ある有名大学の先生の嘆き。「院生に実験を指示したんですよ。そしたら予想と全然違う結果が出た。他の先生も臨席するセミナーの発表で私はワクワクしていたんですが、なんとその院生、「先生の予想とは違う結果になったので失敗だった」なんて発表するんですよ。もう私、ガックリしました。」
2015-10-27 07:51:17予想と違う結果が出るということは、既存の理論に不備がある可能性を示した、つまり新しい発見ができたかもしれない、ということ。既存の理論と違う結果が出たことはイノベーションとして喜ばしいことなのに、その院生は「先生の指示通り=成功、指示に反する結果=失敗」の図式しか頭になかったのだ。
2015-10-27 07:54:07しかしその院生を笑ったり罵ったりすることはできない。その院生は学校教育のなかでそのように思考するよう訓練を受けてきたのだから。そして見事に学校教育に適応し、自らの頭で思考する能力を失った。それだけのこと。学生を笑うより、教育システムを笑うべきだろう。
2015-10-27 07:56:37学校教育が自ら思考する能力を奪う事例を一つ。知人の樹木医の息子が、カリンの木にカブトムシが集まっているのを見つけた。「カブトムシはカリンの木が好きなのかも?」と仮説をたて、町中のカリンの木を見て歩いた。そしてカリンの木には、その樹液を求めてカブトムシがよく集まることを発見した。
2015-10-27 07:59:29その子供は夏休みの自由研究でカリンの木に関するレポートをまとめた。私が担任なら知事賞とか文部科学大臣賞に推薦するだろう。 さて、実際の担任はどうしたか。そのレポートの最後にこう書いていたという。 「カブトムシやクワガタはクヌギの木に集まるものです。」
2015-10-27 08:02:27クヌギの木にカブトムシが集まることくらいもう知られていること。肝心なのは「カリンの木にカブトムシが集まるなんて誰も知らなかったことに気がつき、しかも調査を精力的に行って、それを実証したこと」なのに、先生は新発見を「常識からずれた答え=間違い」と考えたのだろう。
2015-10-27 08:05:02しかしその先生を笑うことはできない。先生もまた、「正解」を子供たちにたくさん覚えさせることを使命として叩き込まれているのだから。カリキュラムに余計なことを教える余裕はなく、受験で「クヌギ」と書くべきを「カリン」なんて書いたら×にされると心配してそのように指導したのだろう。
2015-10-27 08:07:30問題は「正解」とされるもの以外を覚えても受験には何の役にも立たない、ということだろう。 次は私の体験。高校の授業で、環境が厳しい時に生物がとる行動として冬眠等を習った。私はそのとき「夏眠!」と言ったら「はいはい、冗談はそこまで」と言われて私は憤慨。次の授業で証拠の図鑑を持参した。
2015-10-27 08:13:03その先生には雅量があって、夏眠も正解の一つとして認めてくれた。そのときの定期テストで、私と同じクラスメートが「冬眠」と一緒に「夏眠」と書いたのは言うまでもない。それに先生はマルをつけてくれた。 だが、受験では「夏眠」と書いてもバツになる可能性が高い。教科書に書いていないのだから。
2015-10-27 08:16:03今の受験システムは「すでに誰かが発見した「正解」」をたくさん記憶しているかどうかだけを評価するシステム。そのシステムに適合するように、学校教育も教科書に書かれた「正解」をたくさん覚えさせることに専念するシステムとして進化してしまっている。余計なことをする余裕を奪われている。
2015-10-27 08:18:26学校教育と受験システムが絶対視する「正解」とはそもそもなんだろう?生物のとる行動に、教科書記載の冬眠以外に「夏眠」もあるように、必ずしも教科書がすべての正解を網羅できているわけではない。なのに教科書に書かれていないことは「間違い」と考えてしまうように育つのは、何かおかしい。
2015-10-27 08:24:35「正解」とは何か? 「先輩研究者たちが見つけてくれた、今のところ否定する材料が見つからない強力な「仮説」」と考えるのが一番近いだろう。正解は絶対のものではなく、もっとも強力だが暫定的な(つまり「今のところ」正しい)仮説に過ぎない、という捉え方をするのが、科学的にいっても適切だ。
2015-10-27 08:29:26正解は「強力な仮説」ということを端的に示す事例。水素脆化という現象がある。金属容器に高圧の水素を貯蔵すると水素分子が金属に染み込み、脆くなってしまう。これは研究者の間で常識だった。しかしある研究者が徹底して水素を金属に染み込ませる実験をしたところ、脆くなるどころか強靭化した。
2015-10-27 08:41:45教科書にある水素脆化という現象は「中途半端に水素を染み込ませたとき」という前提の時正しかったのだが、前提が「徹底して染み込ませたとき」に変わると、むしろ金属は強くなった。教科書の「正解」には「前提」があり、それが覆ると異なる「正解」が新たにたち現れるものなのだ。
2015-10-27 08:45:57常に新現象を追い求める研究者は、あるいは新製品を産み出すことを求められる企業の開発者は、これまでの常識(教科書に書かれた「正解」)に挑む必要がある。イノベーション(革新)が社会に必要だと言うのなら、教科書の「正解」を絶対視するような教育は、やや修正を必要とするだろう。
2015-10-27 08:49:16あえて「やや」としたのは、やはり「正解」をたくさん覚えておくことにもメリットがあるからだ。「正解」は、先輩科学者たちがこれでもか、これでもか、と、疑ってかかってなお否定しきれなかった「強力な仮説」だ。それをそのまま受けとめることは、余計な失敗をせずにすむ、省エネになる。
2015-10-27 08:52:05また、「正解」がずいぶん後年になってから役に立つことがある。高校の生物で習った生態学のいくつかは、私が30代後半になって微生物学を研究するようになってから様々なヒントが得られた。もし知らなかったら新現象を発見できたかどうか、大いに疑わしい。
2015-10-27 08:55:16ではどうしたらよいのか?「正解」をたくさん記憶するだけだと教科書を絶対視し、新発見を「間違い」だと感じてしまう感性に育ってしまう。しかし「正解」を知らないと、そもそもどこまでが先輩科学者の突き止めてくれたところで、どこからが未開拓なのかさえ区別がつかなくなる。この矛盾をどうする?
2015-10-27 08:58:383つほど提言できる。 1つめ。「正解」は非常に強力な「仮説」だと教えること。「だからいつか、教科書に書かれていないことを発見できたら、勇気をもってそれを実証してください」と授業すること。「正解」の捉え方が変わるだけで、子どもたちは将来、ずいぶん考え方が変わるだろう。
2015-10-27 09:02:372つめ。 国語を「問い」の授業にする。他の科目で習ったことを鵜呑みにせず、様々な角度から眺めることを国語で行う。例えば遺伝子は、理科で習えばDNAとかの物質や遺伝の法則を習うだけ。しかし国語なら「母親似」等の社会的文化的側面にスポットを当てられる。物の見方を変えられる。
2015-10-27 09:06:41国語の作文で、どれだけクラスのみんなをはっとさせるような「意外な見方」を提示できるかを競わせるとよい。「遺伝」一つとっても、親子の愛憎、美醜の問題、遺産相続でもめた事件、実の親より育ての親、なぜ花は蝶のために美しく咲くように進化したのか。実に様々な角度がある。
2015-10-27 09:10:37他の科目が単一の物の見方、「正解」しか教えないのに対し、国語は、たった一つの現象でも実に多様な側面があることに気づかせる授業が可能なはず。「意外な見方」を探す訓練を国語で積み上げることは、将来、イノベーションを起こす基礎になるはずだ。国語こそがイノベーションの基礎と言える。
2015-10-27 09:16:373つめ。 受験システムを変えること。とはいえ「正解」をどれだけ知っているかはある程度重要なので、国語以外の科目はそれなりに記憶重視のテストでも構わない(ただ、変に細かいのは減らすべき)。重要なのはやはり国語のテストだ。作文あるいは小論文で「意外な見方」を提示する能力を問うとよい。
2015-10-27 09:21:59日本の作文教育は「きれいにまとまっている」ことが重視され、意外性がないことは以前にのべた。togetter.com/li/862317 しかしこれからは逆に「意外性」を重視し、他の科目で疑問に思う習慣を持てないことを、国語で補う必要がある。それを、受験改革で後押しするのだ。
2015-10-27 09:26:00