「午前0時の小説ラジオ」・「『痛み』としての教育」

「午前0時の小説ラジオ」・「『痛み』としての教育」
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高橋源一郎 @takagengen

「午前0時の小説ラジオ」・本日の予告編1・というわけで、今晩も、「小説ラジオ」をやることにします。タイトルは「『痛み』としての教育」です。

2011-01-15 23:01:30
高橋源一郎 @takagengen

本日の予告編2・去年からずっと、マイケル・サンデル教授の『これからの「正義」の話をしよう』がベスト・セラーになっています。たいへん素晴らしい本だ、とぼくも思います。よく考えられ、誠実に答えられ、決して「上から目線」にならない。ほんとにいい先生だ。でも、心の底から感動できない。

2011-01-15 23:03:57
高橋源一郎 @takagengen

「本日の予告編」3・それはなぜだろう、と思いました。いや、すぐにわかりました。サンデル先生とおなじように、「正義」と「倫理」の問題について、おなじように平明に説き続けた、もうひとり知っているからです。それは、前回もとりあげた鶴見俊輔さんです。

2011-01-15 23:06:11
高橋源一郎 @takagengen

「本日の予告編」4・ほぼおなじことを、おなじようにしながら、鶴見さんがサンデルさんと違うところがある。それは、鶴見さんの思考が、鶴見さんの肉体の「痛み」を通過して発されているところだ。サンデルさんも決して他人事として語っているわけじゃない。

2011-01-15 23:07:41
高橋源一郎 @takagengen

「本日の予告編」5・サンデルさんも彼の倫理的立場をはっきり述べている。けれど、鶴見さんはさらに前に進む。彼のことばには、彼の肉体の痛みが刻みこまれている。今晩は、そんな鶴見さんの考えの白眉ともいうべき「教育」論について考えてみたいと思っています。では、24時にお会いしましょう。

2011-01-15 23:10:30
高橋源一郎 @takagengen

「午前0時の小説ラジオ」・「『痛み』としての教育」1・教育者にはどんな「資格」が必要なのだろう。鶴見俊輔が書いたひとりの教師の肖像を読んでいると、そんなことを考える。少し長いけれど、最初に引用してみたいのは、これだ。この文章の舞台はおよそ1933年(昭和8年)頃である。

2011-01-16 00:00:56
高橋源一郎 @takagengen

「教育」2・「校長先生のことをおぼえている。七十年たってもおぼえているのは、めずらしいと思う。旧東京市を横切り、電車を乗りついで小学校に達するのが、一年生には苦しかった。他にもそういう一年生がいるらしく、朝礼のときに、ばたん、ばたんと倒れる気配がする日もあった」

2011-01-16 00:02:54
高橋源一郎 @takagengen

「教育」3・「校長先生の話は、みじかかった。『今日は天気がいいね。』それだけ言って、壇から降りてしまうこともあった。全校生徒八百人を前にして、それだけ言って終わるのは、今、私が老人になってみると、めずらしいことだと思う。高い位置に昇ったことのある人は、引退してからも、話が長い。」

2011-01-16 00:05:04
高橋源一郎 @takagengen

「教育」4・「結婚披露宴などに呼ばれて、話のとまらない人は、高い位置に昇ったことのある人だ。校長先生は、雨の日に校内の廊下などですれちがうと、『〇〇君、元気か』などと呼びかけてくる。一年生それぞれにそうだった…。当時、先生は初老で、今、私が八十二歳になって考えてみると、…」

2011-01-16 00:08:24
高橋源一郎 @takagengen

「教育」5・「新入生の名前をおぼえるのに努力が必要だっただろう。おそらく、新入生の写真と名前をあわせておぼえるように、自分なりの練習をしたにちがいない。そして名簿を読み上げるのとちがって、偶然に出会うときに心から湧き出るように、その名を呼んだ」

2011-01-16 00:10:02
高橋源一郎 @takagengen

「教育」6・「十年あまりたって、私はアメリカの捕虜収容所にいた。便所掃除のコツを教える、白いひげの上杉さんという老人がいた。私が当番にあたったとき、上杉さんは私に、『君は高等師範の附属小学校だろう』とたずねた。『そうです。』すると『君たちの小学校の校長先生が会いたいと言うので』」

2011-01-16 00:12:22
高橋源一郎 @takagengen

「教育」7・「『ジョン・デューイのところへつれていったことがあるよ。』そうか。朝礼の訓示がみじかかったのは、デューイから来たのか。すれちがったときに、一対一で、生徒の名前を呼ぶというのも、デューイから来ているのか。明治に入って、プラグマティズムは、ウィリアム・ジェイムズを通して」

2011-01-16 00:14:32
高橋源一郎 @takagengen

「教育」8・「三人の知識人に深い影響をあたえた。夏目漱石、西田幾太郎、柳宗悦。その後、日本の哲学者のあいだでは消えてしまった。だが、大学の哲学教授から遠く離れて、佐々木秀一という小学校校長の教育の中に、これはジェイムズではなく、デューイを通してだが、プラグマティズムは生きていた」

2011-01-16 00:16:49
高橋源一郎 @takagengen

「教育」9・この校長先生は、壇の上から長く話したりはしなかった。話しても、「今日はいい天気だね」とか「休み時間を見ていると、みなさんの遊びには、戦争の遊びが多すぎる」とか「一年生と三年生のけんかを見たら、私はわけをきかずに、三年生を悪いと思います」というようなものだったそうだ。

2011-01-16 00:19:57
高橋源一郎 @takagengen

「教育」10・昭和八年、日本は戦争への道を突き進んでいた。その中で、校長先生がやったのは、生徒の名前と顔をひとりひとり覚えるということだった。廊下で、(知らない、いちばんえらい)先生からいきなり、「〇〇君、おお、今日は元気そうだね」といわれたら、どう思うだろう。

2011-01-16 00:21:51
高橋源一郎 @takagengen

「教育」11・嬉しいだろう、と思う。その先生を好きになると思う。そういう先生がいる場所を好きになると思う。必要なのは、その場所が、いい場所だと思えることだ。そのような場所なら、なにかを教わりたいと心から思えるはずだからだ。校長先生は、そのことがわかっていたのである。

2011-01-16 00:24:03
高橋源一郎 @takagengen

「教育」12・その校長先生は、大正の末にもうアメリカに行き、当時の最高の知識に触れていた。いまでは考えられないほどの最高の知識人だったといっていい。でも、その先生は、彼の思想を、壇の上からすぐに降りること、生徒たちの名前と顔を覚えることの中に実現しようとしたのである。

2011-01-16 00:26:32
高橋源一郎 @takagengen

「教育」13・時は移る。1945年、戦争が終わった時、日本中の教師たちは呆然としていた。「敗戦のしらせを夏休みのただなかで受けたあと、一九四五年九月一日、学校に向かう先生の足どりは重かった。それまで教えてきたことの反対を、おなじ子どもたちに教えなくてはならない。自分が問われる。」

2011-01-16 00:31:07
高橋源一郎 @takagengen

「教育」14・「そのとき、子どもたちに向かって立つ先生の肖像は、光背を帯びていた。それは国に押しつけることではすまない、自分自身のまちがいである」

2011-01-16 00:32:56
高橋源一郎 @takagengen

「教育」15・鶴見俊輔は、近代国家成立以降、唯一この敗戦直後の教師たちの姿に共感している。なぜだろうか。彼らは「まちがって」いたからだ。その「まちがい」を背負って、生徒の前に立たなければならなかったからだ。人はまちがう。教育とは、なによりそのことを教えなければならないのだ。

2011-01-16 00:35:56
高橋源一郎 @takagengen

「教育」16・しかも、その「まちがい」は、「国のまちがい」、「公のまちがい」ではなかった。「公のまちがい」を受け入れた、教師ひとりひとりの「私のまちがい」だった。教師たちは、史上初めて、「私のまちがい」を手にして、生徒と対面するしかなかったのである。

2011-01-16 00:39:27
高橋源一郎 @takagengen

「教育」17・では、教育はどこで行われるのか。鶴見俊輔は「あらゆる場所」で答えている。生まれた時に、母と子の間で、そして、家庭で、職場で、男女のあいだで、「教育」の行われぬ場所はない。恋愛や性交でさえ、人を教え、成長を促すのである。

2011-01-16 00:46:20
高橋源一郎 @takagengen

「教育」18・「私の言いたいことは、今の日本は学校にとらわれすぎているということ。学校がなくても、教育はおこなわれてきたし、これからもおこなわれるだろう。学校の番人である教師自身がそのことを心の底におけば、学校はいくらかは変わる」のである。

2011-01-16 00:48:41
高橋源一郎 @takagengen

「教育」19・では、「教育」とは、どのように行えばいいのか。鶴見の言うように、それが、学校での「知識」の伝達に留まらないとするなら、それ以外の場所で、ぼくたちには、どのように「教育」に接すればいいのか。

2011-01-16 00:50:58
高橋源一郎 @takagengen

「教育」20・「私は自分の父と仲がよかったとは言えない。しかし、晩年、脳軟化症で一四年ことばを失ってねたきりになった彼には、脱帽する。そのあいだ、彼はつねにまわりのものに感謝し、明るい気分をたもち、死にむかって入って言った。常時接触すると、こちらの話につねにまなざしと身ぶりで…」

2011-01-16 00:53:11