震災の記憶が風化する。これは被災地の復興が進むことと、裏表の関係にある側面も否定できない。景観が変われば、それ以前の記憶は薄れる。復興後の新しい住民が増えれば、記憶の共有は更に難しくなる。歴史を振り返ると、近代の津波被害で最も記憶の風化が進んだのは明治29年の三陸大津波だろう。
2015-12-18 16:19:25あれこれと明治の三陸津波のことを調べてきたが、根本的な情報が知られていないのではないか、と思い至ったのがつい最近。明治の大津波では犠牲者が2万人以上と言われているが、そういえば、その犠牲者の一覧名簿を資料としてみたことがこれまで無かった。
2015-12-18 16:22:15津波の災害史研究と言えば山下文男氏の論著に負うところが大きいのだが、氏の『哀史三陸大津波』(1982年)に収録されている津波の犠牲者一覧は昭和8年の津波の際のもので、明治29年の情報は載せられていなかった。今のところ、明治29年の津波による犠牲者名の全貌は不明と言わざるを得ない。
2015-12-18 16:30:19その山下氏が執念で気仙郡の犠牲者名を採録したのが、『歴史地震』第23号(2008)に掲載された報告「大船渡市洞雲寺内の明治三陸津波[1896・6・15]の犠牲者を弔う『丙申大海嘯溺死者諸精霊等』について」。ここで気仙郡のみであるが、大位牌に刻された犠牲者名を紹介されている。
2015-12-18 16:46:06報告のpdf.はこちら sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/rzisin/kaishi_… 残念ながら、洞雲寺の大位牌には全員の名前が記されていない。世帯主に当たる人のみが記され、「他何名」という家族表記がされているケースも多い。
2015-12-18 16:49:18それでも、ここまで詳細に犠牲者名が分かるのはこの気仙郡のみである。宮城県内の自治体史も総覧したが、明確に犠牲者名を掲載していたのは『唐桑町史』のみであった。とはいえ唐桑町内の犠牲者は900名以上を数えながら、収録されている人名は十数名ほどであった。記録すら無かったのであろう。
2015-12-18 16:53:11明治29年当時、公表された被害情報は流出・全半壊した戸数と犠牲者数のみで、名簿は揚げられていなかった。行政書類が流出したケースや、一村ほぼ全滅といった地域もあったことから、情報の確認すらできない場合もあったことは致し方あるまい。明治の三陸津波の被害情報とはそのようなものであった。
2015-12-18 16:59:53歴史学的な研究として、明治29年の津波犠牲者の名簿を可能な限りまとめておきたいのだが、洞雲寺の大位牌の存在は例外中の例外で、実際には明治期の公文書や津波慰霊碑の類を丹念に追跡するしか無さそうである。一度失われてしまった記録や情報を復元することの難しさを痛感する。
2015-12-18 17:14:38参考情報(pdf.)。北原糸子氏による山下文男氏の追悼文(sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/rzisin/kaishi_…)/目時和哉「石に刻まれた明治29年・昭和8年の三陸沖地震津波」(www2.pref.iwate.jp/~hp0910/kenkyu…)
2015-12-18 17:18:46