- BigCalibre_John
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ただ、この指導には少数ながら反感を持つ隊員もいた。「日本式のやり方を認めず、むしろそれを蔑視している」と感じた隊員が、特に旧軍の下士官出身者等にいたようだ。
2011-01-22 00:51:19さて、こうした隊員が使用した教範は何か。1941年版米軍野外教令FM100-5"Operation"だった。これが保安隊発足まで続く
2011-01-22 00:55:27とはいえ、「古き日本のしがらみ」に縛られていると思われた大佐級の復帰が実現したのは、保安隊発足が予定された1952年になる。これには吉田首相の承諾が得られたことも大きかったようだ
2011-01-22 01:03:53さて、彼等が使用した教材は何になったか。これは1949年版FM100-5"Operation"であり、FM101-5"Staff Officer's Field Manual"だった。
2011-01-22 01:07:331955年に始まった新教範類編纂の指導に於いては、思考過程は米軍式だが、国内戦の様相を考えて日本式を取り入れようとしたとされる。日米いずれの方式をとるかは、1950年代を通じて論議された
2011-01-22 01:14:41一時は「かつての作戦要務令の用語が戦術論議で飛び交う」といわれるほど日本式に傾いた時期もあった。しかしこれは、当時の杉田陸幕長の裁定で「米軍式重視」と決定されている。
2011-01-22 01:16:32何故米軍式を重視したか。恐らくは思考過程を米軍式にするというコンセンサスがあったためだろう。「十分に習得するまでは模倣せよ」というのが杉田裁定の核である
2011-01-22 01:20:02このため、「野外令」も「野外幕僚勤務」も1949年当時の米軍教範から大きく逸脱してはいない。マイナーチェンジはあるとはいえ、基本は変わっていない
2011-01-22 01:22:58画期的な変更とは何か。ルーズリーフ形式にしたり表紙を迷彩にしたりしたこともある。しかし中身も大幅に違っていた。「数値の重視」と「アクティブディフェンス」だ
2011-01-22 01:30:09マクナマラ時代の遺産か、76年版FM100-5はデータだらけだった。「TOWの致死率」とかそんなデータだ。「それは"Operation"に必要なのか」という疑問はすぐに出てきた
2011-01-22 01:33:16もう一つのアクティブディフェンスも、「防勢的に過ぎる」と批判を受けた。またNATO軍のドクトリンとも整合が取れていなかった。このため、1982年版、1986年版と短い周期で更新される事になる。
2011-01-22 01:36:17現在に繋がる意味で画期的だったのは、むしろ1982年版だろうか。エアランドバトルと作戦術が出てきたのはここからだった。この概念をさらに発展させたものが1986年版のFM100-5に繋がる。
2011-01-22 01:39:26さらに80年代後半以降のクラウゼヴィッツ・ルネサンスの成果を踏まえ、倍軍のドクトリンは進化を続けた。現在のFM3-0"Operation"には戦術次元の記述はほとんど無く、まさに「作戦術の教範」となっている。
2011-01-22 01:42:38また、FM101-5もがらりと変わっている。これに影響を及ぼしたのはモルトケ流の「訓令戦術」の研究である。一言で言えば「分権化」になる。
2011-01-22 01:45:01FM101-5は現在ではFM5-0と名前を変えている。見積のサイクルは以前とは全く違った物になっている。これについていくのは大変だろう
2011-01-22 01:47:15さて、ここまで読んでもらえれば、大体言いたい事は分かると思う。「野外令」だの「野外幕僚勤務」だのは、別に我が国特別のものではないばかりか、むしろ米軍の教範の化石とも言えること
2011-01-22 01:48:54