丹生谷貴志ツイートまとめ(2015年12月)

丹生谷貴志さんの2015年12月のツイートをまとめました。
人文 丹生谷貴志 水木しげる 円城塔 野坂昭如
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nibuya @cbfn
冬の風でも山の不意の匂いでも猫の眼でもいいが、ああこれはどこかで覚えていると、思い出そうとする時に、何よりもまず、「なんの小説で読んだのだろう・・・」と考え出してしまう。読書家というほど本を読まないのに、水に落ちたインクくらいには、つまりは決定的に・・・どうでもいいことですね・・
nibuya @cbfn
水木しげるさんの登場は僕の世代にはマガジンだったかサンデーだったかに乗った見開きの巨大な鯨のペン画とかだった。衝撃的な絵で、ペン画家になりたいとしばらく本気になった。『ゲゲゲの鬼太郎』のような連載が始まっても待ち望んだのは手を尽くしたペン画の画面が現れること、他は覚えていないのだ
nibuya @cbfn
どんな言葉でも画像、映像としてしか理解できないと以前書いた気がします。ドストエフスキのようなものでも、フーコーは無論、スピノザやらのようなものでも、脳裏で画像にならないと理解できない。文字の群れが画像になるまで待ち続けるので、結果読書の速度は異様に遅くなり、どんどん遅くなり・・・
nibuya @cbfn
・・・だから、「画家として」記憶に残る書き手だけが残り・・・例えばレヴィ=ストロースは僕には「大画家」の一人に他ならず、構造主義はその絵の呼び名として残る。思想も思考も画像だということは説得できるだろうか。逆に言えば、絵の下手な書き手は脳裏に残りようがなく、消えてしまう・・・
nibuya @cbfn
ガラス壜の中に作らせた蟻の巣にお湯をかけて蟻たちが慌てふためく様子を見るのが好きで仕方ない知人が小学校の時にいた。適度のエリート、或いは適度に知的だと思ってる人物たちを登場させて「熱湯」をかけて慌てふためく姿を描いて愉しんでいる・・・ウェルベックの小説はいつもそんな読後感を残す。
nibuya @cbfn
ここ数日、ドラマやゲームで6本程、何故か偶然、アーサー王伝説ものばかり。アングロサクソン(?)の固着夢想なんだろうか。もっとも、これほど同じ題材が現れるのは、或る時期から始まった欧米の歴史ファンタジー産業(?)もそろそろネタ尽くしに達したことの兆候だろうか。いい怪訝な予測ですがね
nibuya @cbfn
退屈なループ。「なぜ無ではなく存在があるのか?」という問いが仮に形而上学の根本的問いであるとして、無論、「無」と「存在」という区別があるという前提自体形而上学に属するのだから、昭和の古い言葉で言えばこれを「マッチポンプ」と言うしかないわけで・・・
nibuya @cbfn
円城塔さん作中『古事記』からの引用「度事戸」が分からない。調べる。「コトドヲワタス」と訓じ、普通には「離縁を言い渡す」という意味と解しているが実は「コトド」は意味未詳の語らしく、西郷信綱先生はこれを一種の呪言を含んだ死者への退散の通告、「去れ、戻るな」という意味だろうと言う。納得
nibuya @cbfn
生涯全くに近く「小説」を読まなない者はいて、それに対して1日数冊読むなんて者もいる訳だが、では後者より前者の方が「小説を読んでいない」という断言はできない。脳は間断なく「造話」することを止めない以上、前者が生の全細部を「小説を読むように」読んでいると推定することは容易だから。
nibuya @cbfn
戦地の歩哨で地平を見ている時不意に地球の自転が具体的に「見えた」不安を大岡昇平がどこかに書いている。「知る」とは究極的にはそれを存在様態として具体的に「生きる」ことだとすれば私らは自転を具体として「生き」ねばならず、日本平均経度なら時速1400㎞で動いていることを生きねばならない
nibuya @cbfn
正岡子規のいわゆる「写生」が知覚外形の「写真的写実」ではなく、「言葉と物」、或いは「モノにおいて」砕け散ろうとする場に表象を置くという或る意味セザンヌ的な(!?)様態を巡る主張であったことは、周知の事実でなければならない。その意味において貫之は「くだらぬ歌人」と子規は断じたのだ
nibuya @cbfn
例えば「言葉では言い表せない」という時、それは一般言説、書字の位相においての認証であり、「あらゆる知覚、認識は本質的に言葉である」という位相においては不正確である。あらゆるものは潜在的に言語的であり言語で表せないものは「存在しない」。無論「言葉とは何か」を巡る認知深度の問題だが。
nibuya @cbfn
「語りえぬことについては沈黙せねばならない」という有名なテーゼは「語り」の深度によるが、或る深度から言えば「語り得ぬものは存在しない」はずであり、したがって「沈黙」は強勢し得ない。「哲学は沈黙を拒否する。世界が沈黙として与えられることはあり得ないから」というテーゼもあり得る。
nibuya @cbfn
・・・例えば「ブルース」や「ジャズ」や「ロック&ロール」が大資本マーケットに呑み込まれた時、いま少し深刻な抵抗があるべきだったと思うが、それが不可抗力であったとすれば、ロックは「資本の娯楽」の中で、せめてどこか不安な「ポリープ」であり続けるべきだ・・・
nibuya @cbfn
「無知の知」?「無知の知」は沈黙に抗うことを本質とし、ソクラテスは喋り続け、自身の死の実況までするのだ。三流の禅坊主(!)に騙されてはならない。禅は喋り続けるので、不立文字は沈黙への拒否として理解されねばならない。石庭は喧しい。残念ながら多くの場合ひどく通俗的に煩いのが難点だが。
nibuya @cbfn
シンガー以降の「動物倫理学」に対する違和感・・・その根底の「生命体」としての対等性の見出しには、私の偏見だろうが、如何にも終末論的な匂いがする。デリダやらに「触発」されてかもしれない最近のその再興でも変わらない。まあ、堕ちてみたら仲間だったというのじゃあ「動物たち」に失礼だ。
nibuya @cbfn
私事。意味なくニコンのルーペで円城塔さんのページを読んでいて、と言って私は裸眼でも読書に困らないから無意味な行いなのだが、レンズが不思議で、不意にスピノザの遺稿『虹の計算』と『ヘブライ語概略』の仏訳を持っていたはずだと夜中に思うがどこに紛れたか想像もつかず、無意味に途方に暮れ・・
nibuya @cbfn
「今の同期性」で現れる小説。今更「斬新な主題」やら「奇想」「面白い話」「雰囲気」などに反応する初々しさは自分にないので、曖昧な言い方だが「どこにおいてその署字が生成しているか」以外に何の反応要素も自分にはない。そうなるともはやあらかたの「新作小説」が自分には疎遠になってしまう。
nibuya @cbfn
凡庸な確認。例えば千年前の人界は当然ながら今の世界より遥かに壊れ易くガラス球体のように可感的に彼らを囲んで、どこでそれが壊れるかは彼らの世界の本質属性であり日常的認識に属した。今の世界は壊れ易さにおいて殆ど強化されてはいないがガラス玉の縁は不可知になり或いは各自の眼球に属し・・・

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