斎藤一日記・其の二

新選組斎藤一に関するツイートのまとめ。
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新選組の日々(新暦) @kiraboshi33

1866年11月10日(慶応2年10月4日)は相馬俊和が生まれた日にあたる。 父/相馬俊明 母/山口ひさ。#斎藤一 の実姉。 俊和は相馬夫妻の第2子で長男。

2015-11-10 18:45:47
新選組の日々(新暦) @kiraboshi33

1865年11月10日(慶応元年9月22日)は井上源三郎が兄に書簡を認めた日にあたる。 「局中先生始メ、土方、沖田、永倉、武田、藤堂、斎藤、其外一統無事ニ相勤おり候」

2015-11-10 23:23:03
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【TV番組】「YOUは何しに日本へ?」 11月16日18時57分~。TV東京系列にて。 “想いを日本語で…新選組好きすぎ女子YOUが10年越しの夢かなえて墓参り旅…会津で号泣” tv-tokyo.co.jp/youhananishini… 動画は阿弥陀寺の藤田家の墓前で涙溢れるオランダ女性

2015-11-15 00:37:59
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1913(大正2)年11月15日付けで『会津会会報』3号に、阿弥陀寺内墓田寄附へのお礼と報告が掲載される。総代は藤田時尾。藤田五郎(#斎藤一)の妻である。 「拝啓 寒の砌益御多祥大慶之至に奉存候。陳者阿弥陀寺墓田の儀は各多大の御同情により望外の好結果を呈し

2015-11-15 18:37:28
新選組の日々(新暦) @kiraboshi33

表記の通り福島県北会津郡門田村大字日吉字充殿館千四百一番に於て良田を求め候間御報告を兼ね深く奉感謝候就而は各位の芳名を記し候木札を製し永く阿弥陀寺に保存致度希望に候へ共残額にては少しく不足に付き有志各位応分の御寄附に待つより外之無幸に御同情を賜はり候はば幸甚の至りに奉存候。

2015-11-15 18:43:00
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右御礼かたがた御願申上候 敬具。 大正二年十一月十五日 阿弥陀寺内墓田寄附若松外発起人 総代 藤田時尾」

2015-11-15 18:44:32
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1863年11月17日(文久3年10月7日)は相馬てるが生まれた日にあたる。 父/相馬俊明 母/山口ひさ。#斎藤一 の実姉 この頃斎藤一は、新選組の隊名を得て、京都で過ごしている。 斎藤一にとって初めての姪。どのようにその誕生を知らされたのだろうか😊

2015-11-17 22:02:38
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1845年11月19日(弘化2年10月20日)は沖田勝次郎が亡くなった日にあたる。#沖田総司 の父。 墓所/専称寺 戒名/法性院諦岸浄休居士

2015-11-19 18:19:20
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1888年(明治21年)11月19日は山口祐助(右助)が亡くなった日。 #斎藤一 の実父。

2015-11-19 19:08:12
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沖田総司と斎藤一のお父さんが亡くなったのが同じ日になるとは。 グレゴリオ暦に直してみないと、気付かなかった。

2015-11-19 20:10:50
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1913年(大正2年)11月22日は徳川慶喜が亡くなった日。 墓所/東京都台東区 谷中霊園 e-ishiya.com/reien/yanaka/y… pic.twitter.com/1ZOPExXVsp

2015-11-22 18:56:38
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1882年(明治15年)11月26日は、警視庁における剣道の試合で、巡査部長・藤田五郎(#斎藤一)が、巡査・富山円と対戦した日。 藤田五郎39歳、 富山円32歳。

2015-11-26 21:13:02
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1801年12月4日(享和元年10月29日)は山口祐助(右助)が生まれた日にあたる。 #斎藤一 の実父。

2015-12-04 19:39:08
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1893年(明治26年)12月5日は松平容保が亡くなった日。 会津藩主、京都守護職などをつとめ、新選組とも深く関わった。 「老公御病気の処本日午前十時薨去被遊候」明治26年12月6日付読売新聞 pic.twitter.com/fUtwebWUNh

2015-12-05 00:03:38
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1867年12月5日(慶応3年11月10日)は『秦林親日記』によると、月真院から#斎藤一 が脱走した日にあたる。 「江戸人斎藤一、卯十一月十日出奔反腹シテ、終ニ同十八日夜同志ノ者ヲ暗殺シタリ」 pic.twitter.com/4VJuycT5P4

2015-12-05 17:17:32
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1867年12月13日(慶応3年11月18日)は月真院を脱走したあと三浦休太郎に預けられていた斎藤一が、近藤勇に呼び戻された日にあたる。 「陳二郎事潜伏之義、如之御配慮奉多謝候」 「少々相用致候事件出来候間、無御断引取申候」 近藤勇の書簡

2015-12-13 19:47:51
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1867年12月13日(慶応3年11月18日)は伊東甲子太郎が新選組により暗殺された日にあたる。大石鍬次郎、横倉甚五郎、宮川信吉、岸島芳太郎が実行犯とされる。 「大石桑次郎ハ大身ノ槍ヲ以テ、板塀ノ透間ヨリ伊東ノ肩先ヲ健カニ刺通ス」 『新撰組始末記』

2015-12-13 19:48:06
新選組の日々(新暦) @kiraboshi33

@kiraboshi33 「法華寺ノ門前ノ碑石ニ伊東ハ腰打カケ憩ヒ、奸賊原ト大声ニ叫ビタル儘斃タリ」

2015-12-13 19:49:25
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亡くなった伊東甲子太郎は油小路にその遺体を動かされる。 「初メ槍疵咽喉ニ達シタレバ、之レガ為ニ息絶エ一人ノ奸党屍ノ側ラニ至リ、其左足ヲ切ルニ動カザレバ死ニ至リタルヲ知リ、死骸ヲ七条ノ辻ニ引来リ、其所ニ投ジ」 『新撰組始末記』

2015-12-13 19:55:24
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伊東甲子太郎の遺体を引取りに「役人」に呼び付けられた御陵衛士のうち、藤堂平助、毛内有之助、服部武雄が、油小路で新選組に討たれる。 「翌朝之ヲ見ルニ、手指数十飛散シ、人家ノ壁ニ鬢ノ毛付タル肉血痕数十ケ所アリ、其烈戦ノ程思ヒヤラレタリ」 『新撰組始末記』

2015-12-13 20:04:50
新選組の日々(新暦) @kiraboshi33

「伊東甲子太郎氏の屍体-駕籠中に踞し双刀は側に在り-及び服部三郎兵衛、藤堂平助、毛内監物、此四君の屍を実地に視る事を得たり」という小山正武の談。 『史談会速記録』

2015-12-13 20:27:34
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「藤堂平助も亦有名の智勇共に衆に秀でたる人にして、其初めには近藤勇の四天王ともいわれたりし人なるが、後に新撰組を脱し去りて伊東、服部等と事を共にし、伊東の左右の手と為りたる人士也という」 「藤堂平助は重創数ケ所軽創多々にして斃れてあお向きになって居たが」

2015-12-13 20:28:14
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「服部氏の死状は実に勇ましく、其頭額前後左右より肩ならびに左右腕腹共に満身二十余創、流血淋漓して後の顔色尚お活けるが如し」 「二十余歳の優れた身体で以て立派に沈勇的精神が死顔に顕われ溢れつつ、手に両刀を握ったるままで敵に向って大の字なりになって斃れておられた」

2015-12-13 20:28:24
新選組の日々(新暦) @kiraboshi33

明治9年12月15日は藤田勉氏が生まれた日。 父/藤田五郎氏(#斎藤一) 母/高木トキヲさん 名付け親は山川浩氏で、歌を贈っている。 「藤田五郎の子をもうけたるに名をつけよといひければ 勉と書いて遣しける 勉てふ名に背かすはやかてよに(やがて世に) 高く功のたゝさらめやは」

2015-12-15 18:43:11
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1920年(大正9年12月24日)は藤田時尾さんが亡くなった日。 元新選組・#斎藤一 こと藤田五郎さんの妻。

2015-12-24 12:36:27