中村圭志先生 @7AChip による宗教についての言語論的な思索

宗教概念批判のもう一歩先のところ、ですね。ここが一番大事なところだと私も思うんであります。('ω')
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Keishi N 中村圭志 @7AChip

ルートウィヒ君「語りが行なわれるとしても、それ自体は宗教的行為の一要素なんだ。理論ではなんだ……。だから、そのことばが真であるか偽であるか無意味であるかといったことだって、全く問題にならないのさ」 pic.twitter.com/jAGmMiYk5I

2016-01-10 10:27:00
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Keishi N 中村圭志 @7AChip

ルートウィヒ君の言ってることは本当だと思われるが、ただし、宗教信者は宗教の言葉が真であるか偽であるか無意味であるかをけっこう問題にしていたりする。

2016-01-10 10:27:15
Keishi N 中村圭志 @7AChip

そういう態度があったとしても、なお、それは問題にならないと、ルートウィヒ君はいうのだろうか。その場合、真か偽か無意味かを問題にしているのは当人の能力の限界であって、その能力とは別のところに宗教の問題があるのだろうか。

2016-01-10 10:27:29
Keishi N 中村圭志 @7AChip

それともルートウィヒ君の言う「宗教」よりも現実の「宗教」の方が広いというだけなのか。その場合ルートウィヒ君は、現実の「宗教」の中に、さらにコアの「宗教」すなわち「宗教の本質」を考えているように思われる。実際この少し前のところでルートウィヒ君は「宗教の本質」という言い方もしている。

2016-01-10 10:27:41
Keishi N 中村圭志 @7AChip

しかしのちにルートウィヒ君は「本質」にこだわる思考を退けたと言われている。では、こうした言い方は結局、過渡期的なものなのか。いずれにせよ、これはフリードリヒ君の伝聞によるルートウィヒ君の言葉なので、これだけでは何とも言えない。 pic.twitter.com/DkfNdH6z87

2016-01-10 10:28:03
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Keishi N 中村圭志 @7AChip

ルートウィヒ君「語りが行なわれるとしても、それ自体は宗教的行為の一要素なんだ。理論ではないんだ……。だから、そのことばが真であるか偽であるか無意味であるかといったことだって、全く問題にならないのさ」 (誤字修正)

2016-01-10 11:26:30
HORI Masahiko @hori_mshk

「内面」的なものに本質を求めることをしない、ということ、と自分は理解してるけど、ともあれこの辺は興味が尽きない。 twitter.com/7achip/status/…

2016-01-10 16:29:45
Keishi N 中村圭志 @7AChip

宗教家が宗教の語りの真・偽・無意味を問題にしているとき(たとえば神は有るのか無いのか)、観察者がそれを哲学的・科学的問題とうけとって、その宗教家と同様に、その真・偽・無意味を問題にすることができる。 pic.twitter.com/1PlgSvQ2It

2016-01-10 21:13:34
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Keishi N 中村圭志 @7AChip

あるいは、そうした語り自体を一種の儀礼的なしぐさと見て、その宗教家の(少なくとも表層にうかがわれる)信念を敢て無視して、「その語りにおいては(本当は)真・偽・無意味が問題なのではないのだ」と論じることもできるだろう。

2016-01-10 21:13:47
Keishi N 中村圭志 @7AChip

前者のやり方はその宗教家の意に沿う態度ではある。しかし、ルートウィヒ君の宗教観においては「それは宗教のポイントを外した態度である」ということになるようだ。

2016-01-10 21:14:03
Keishi N 中村圭志 @7AChip

後者のやり方はその宗教家の(表層的な)意向を無視した態度である。しかし、ルートウィヒ君の宗教観においては「それは宗教のポイントをついた態度である」ということになるようだ。

2016-01-10 21:14:15
Keishi N 中村圭志 @7AChip

ここで気になるのは、仮にその宗教家がルートウィヒ君に異議申し立てしたとしても、ルートウィヒ君は①それを却下するか、②それを一種の儀礼的しぐさと見なして無視するかできそうだということだ。

2016-01-10 21:14:32
Keishi N 中村圭志 @7AChip

いずれにせよ、その宗教家よりもルートウィヒ君のほうが宗教的判断力において格上ということになる。(ただし相手はそれを認めないだろう。あるいは説得されるか?)

2016-01-10 21:14:46
Keishi N 中村圭志 @7AChip

ところで、宗教の本質は語れるのか語れないのか? 次のように考えるべきか? ①「宗教」を辞書的に定義づける本質を確定することはできない。事実上、宗教は、部分的な共通点で結びついている歴史的形成物の連合体である。(基本的には「宗教」に限らずあらゆる言葉が本質の定義を拒んでいる。)

2016-01-10 21:15:02
Keishi N 中村圭志 @7AChip

しかしあらゆる言葉とも同様、②その一群の曖昧なる「宗教」のうち、相対的に人々の認識が一致している部分を敢て選び取ってその「本質」を論じるという格闘技をしかけ、それがいっそう多くの人々を巻き込んでいくことを期待することはできる。

2016-01-10 21:15:21
Keishi N 中村圭志 @7AChip

さらに③自分が宇宙の根本問題だと直観するもの(たとえば独我論の問題)に関して、それを「宗教」と名付けてそれを指さす(語る?)ことも可能だ。要はそういう感性に賛同する人がいれば、用は足りるのである。

2016-01-10 21:15:36
Keishi N 中村圭志 @7AChip

ルートウィヒ君であれ、他の哲学的宗教論者であれ、内心は③の気持ちで「語れないもの」を遠巻きに語ろうとする一方で、概念の現実に関しては①のような一般論でぐっと身を引いて、しかし多くの場合、中間の②のような態度で、さまざまなレベルの本質論を仕掛け続けているように思われる。

2016-01-10 21:15:54
HORI Masahiko @hori_mshk

@7AChip クリアな整理ですね。また一つ、考える糸口になりました。

2016-01-10 21:56:46
Keishi N 中村圭志 @7AChip

@hori_mshk 言葉が静的な写像のようなものではなくて、ゲームのようなものだとすると、宗教の定義みたいな問題も、やはりどんどん格闘技めいたものになると思うんですよ。宗教の場合、とくにそういう参与性が強いような……。曖昧な言い方ですけど。

2016-01-11 10:43:34
HORI Masahiko @hori_mshk

まさに格闘技、ですね。その部分での力のせめぎ合いをどう可視化するかが、哲学系の議論だと抜けがちになるなぁ、と。 twitter.com/7achip/status/…

2016-01-11 10:48:58
Keishi N 中村圭志 @7AChip

ルートウィヒ君が「語れないもの」について語ることの無意味を説き、しかしなお、実証主義を超え出た(第一に、「語れないもの」を語ることに価値を感じていた、第二に日常言語へと開かれた)ことは、哲学的宗教論者を喜ばす。 pic.twitter.com/jHwMUahK2n

2016-01-14 15:04:36
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Keishi N 中村圭志 @7AChip

だが、ここにはミスリーディングな要素があるように思う。

2016-01-14 15:04:52
Keishi N 中村圭志 @7AChip

哲学的宗教論者はしばしば無造作に、ルートウィヒ君のような純粋な人が「見ているもの」の中に「宗教」を探そうとする。しかし、宗教の実態を知る者は、一般信徒の宗教の99%が絵に描いたように純粋ではないことを知っている。これは論理の言語と日常言語の差にも似ている。

2016-01-14 15:05:07
Keishi N 中村圭志 @7AChip

一般の宗教の営みの中にある現世利益や集団的アイデンティティの追求、ふつうの意味での慈善や福利への期待、世俗の法規範に対する忠誠と同様の戒律への忠誠、心理療法のような癒しの追求のほとんどは「神はあるのか」「死後はあるのか」「神が先が善が先か」といった問いとは関係がないかもしれない。

2016-01-14 15:05:20
Keishi N 中村圭志 @7AChip

信者は哲学者ではない。ここで、信者の思想や行動の本源を探ろうとか、無意識の意図を探ろうとかいうのは見当違いだろう。むしろ信者の外部、社会関係の方に「宗教」はあると言えそうだ。

2016-01-14 15:05:35